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【小説:盛岡】みえないさくら (2)

三 白杖

 喜ぶべき招待だったのだろうが、それは飯坂の出現によって小さな波風が立ち始めていた健児の心にさらに別の方向から風を吹かせる結果になり、それ以来、健児は経験の無い心の重さを感じるようになっていた。ただ、普段からあまり口数の多いほうではない健児は、表面上いつものテンションをどうにか装うことができた。そしていくらか気分が落ち着くと二つのことが頭に浮かび、そしてまた憂鬱になる、ということを何度も繰り返す日々が続いた。
 その一つは進路のこと。自分は何がしたいのか。漠然と嫌いではない情報処理関係の仕事は…、と思い始めてはいたが、パソコンで何をしたいのかが全く思いつかなかった。「手段」と割り切って勉強に励むだけのエネルギーにはならなかった。
 もう一つはやはり朱実のことだった。生まれて初めてのときめきを感じながら、どうやって高総体に行こうか、いや、それ以前に行くべきかどうかを迷っていた。朱実は確かに招いてくれたが、自分が応援に行ったとしても、陸上部の仲間も一緒の中で、ましてや最後のレースと言う一大イベントの中で、自分のことなど、それほど構っている時間も余裕も無いだろう。もしも相手をしてくれたとしても迷惑なのではないか。そんなことばかり考えていた。
 健児にとっては、朱実と面と向かって話をしたことが無いことが逆に救いになっていた。会って話をしたら自分の中の何かが大きく壊れてしまうような気もしていた。それが何かは分からない。ただ、地震の揺れ初めを感じた時に、これからどれ程大きな揺れになるのか想像が付かずにゾッとする時のような計り知れない恐怖を感じていた。その恐怖に負けそうになり、朱実には知らせずに自分のメールアドレスを変更しようかとも考えた。そんなことを寄宿舎の部屋で一人考えていると、暗闇のさらに暗闇に自分が入り込んでしまっているような気さえした。わずかな明かりもそこには無かった。
 高総体の話は、珍しく明弘にもしなかった。
 最後の練習に熱が入っているのだろう、あれ以来朱実からのメールも無かった。
 校門脇のソメイヨシノは、つぼみがかなり膨らみ、先が紅く色付いてきていた。

 高総体の前日になった。
 飯坂は他のクラスの社会の授業も受け持っていたし、放課後は弱視の生徒を体育館に集めて、サッカーを教えたりしていたので、その人望の厚さは生徒全体に広がっていた。
 金曜日は帰省日といって、寄宿舎から実家へ全員が帰省する日である。遠くは友孝のように青森県まで帰省する者もいる。それぞれ休日を家で過ごし、日曜の午後にそれぞれ寄宿舎に戻ってくるのである。
 健児は朝からどことなくそわそわしていたが、帰りのホームルームが終わったあと、とうとう飯坂に声を掛けた。
 「タカッチ、ちょっと話が…」
 「おー、とうとう固まったか。よし、ちょっと待ってろ」
 飯坂はそう言って一旦職員室に戻って行った。その間に他の三人はいつものように「んじゃな」とか言いながら帰っていった。
 帰省日の放課後は、明弘と加奈子にとっては週に一度のデートタイムで、盛岡駅まで歩いていく途中、回り道をして大通り方面に寄って行くのが恒例だった。一応校則違反だったので、二年の時までは、それを知っているのはクラスメイト四人だけだったが、三年になってからは担任公認になっていた。
 健児はこれから言おうとしていることと飯坂が期待しているだろうこととのギャップ、加えてまだ飯坂に対して素直になりきれていない自分の状況を思い、さらに気が重くなったが、それ以上に切羽詰っていた。
 「思ったより早かったな。で、どんな感じに決まった?」
 飯坂は教室に入ってくるなり、やはり進路の話をしてきた。
 「話は進路のことじゃないんだけど」
 飯坂は「なーんだ」と軽く言って、大きな手帳をパタンと閉じた。
 「んじゃ、何だ?もっと面白い話か?それともここ何日か少し元気が無いように見えるから何か相談事か?」
 飯坂が自分の動揺を感じ取っていた事に健児は驚いた。
 「相談って言えば相談だし、面白いかどうかも分かんないけど、メル友の話っす」
 「深田朱実か?」
 「そう…。実は明日、高総体で走るらしくて、応援に行きたいんだけど、どうやって行こうかと…。あと、俺みたいなのが行っても迷惑だろうなとも…」
 「何だ、歯切れが悪くて健児らしくないな。深田が応援に来てくれと言ったんだろ」
 「はい…」
 「なら問題ない。深田は無責任に人を誘ったりするやつじゃないよ。ちょうど俺も明日はサッカー部の応援に運動公園に行くから乗せてってやる」
 「本当すか?」
 「ただし、他の先生には内緒だ。自家用車に生徒を乗せるのは面倒臭い手続きがいるからな。その代わり、親にはきちんと話しておけ。明日、八時半に家に迎えに行くからちゃんとお洒落しておけ。出掛けに俺がチェックしてやるけどな」
 「よろしくお願いします」
 健児は素直に頭を下げた。
 イスから立ち上がりながら飯坂は、
 「そうか、深田が健児を高総体に誘ったか」
 と健児にも分かるようなうれしそうな声で呟いた。
 逆に健児は、安堵感や期待感とともに、これまで知らずにいた、知らずにいたかった病名をいよいよ告知されることになったような、さらに複雑な気持ちの自分がそこにいることに気付き、どう処理したらいいのか分からない不安感もこの時抱え込んだ。

 その日の夜は、全く眠れなかった。いや眠ったのかも知れないが、一晩中朱実のこととこれからの自分のことが頭から離れずに起きていたような感覚だった。何か具体的なことを考えていたわけではなく、何度も何度も漠然とそれらが脳裏に現れ、それを避けようとすると、体が「ビクッ」と反応して目が覚めた。
 健児は家では煙草を吸わない。いや、吸えなかった。健児の部屋にベランダは無かったし、寄宿舎の指導員はごまかせても親をごまかせる訳もなく、諦めていた。
 朝五時にベッドから起き上がり、前の晩に高一の妹、美紀にアドバイスしてもらいながら準備した服に着替えた。美紀には、「交流で知り合った友達の応援に行く。恥ずかしい格好では友達に恥を掻かせる」と言っておいた。
 美紀はこの春から盛岡市内の県立の女子高に入学していて、美術部なので高総体には関係が無かった。普段から兄の私服のファッションにはうるさかったが、そのお陰で健児は全盲にありがちな流行に無頓着なファッションにはならずにいられた。美紀は「友達に恥を掻かせる」という健児の言葉に妙に納得し、普段以上の協力してくれた。
 上は薄手の白い長袖TシャツにGジャン。下はカーキー色のルーズなチノパンにブルーのコンバース。それにやはりカーキー色のヤンキースのキャップを深めに被った。
 時間通りに飯坂は来た。車は古い4WD車だった。母親と父親が出てきてあいさつをしていた。すでに面談をしていたので、二人とも飯坂のことは知っていて、やはり好印象を持っていた。特に父親は、「学校の先生だけしかやったことが無い人と違って、話が分かる」と健児には意味の分からないことを言って褒めていた。
 健児の家族は四人家族で、父親は盛岡市内では比較的大きな中古車販売業を営んでおり、店は盲学校の近くにあった。母も事務を手伝っており、共稼ぎだった。
 健児を産んですぐ、その障害が分かった時、母親はかなりのショックを受け、精神状態が不安定になったそうだが、父親が支えになって乗り越えた、という話を近くに住む母方の祖母から健児は聞いたことがあった。
 健児は自分を心から受け止め、理解してくれる両親が好きだったが、思春期が近付くにつれてその気持ちを素直に表現できなくなり、特に進路の事が話題に上がるようになった中学部の頃からは、訊かれたことに答えるだけの会話がほとんどになっていた。
 どうやら、飯坂のファッションチェックに健児は(美紀は)合格したようだった。両親に見送られながら、車は運動公園に向かった。

 運動公園全体が、盲学校で育った健児には免疫が無い雰囲気で包まれていた。出掛けにテレビの天気予報で「五月下旬の暑さになる」と言っていた通り、空が晴れ上がり、気温も上昇してきていることを健児は公園の中を飯坂に誘導されて歩きながら体で感じ取った。
 「高総体」という言葉の意味は知っていたが、会場に来ることはもちろん、全く関係ない世界のことだと思っていた。いろんな競技の会場から聞こえるボールを打つ音やアナウンス。幾重も重なる歓声。初夏の陽気では足らず、そこだけは真夏だった。
 陸上競技場のメインスタンドの一番前の席まで飯坂に誘導してもらった。
 全盲の人はスポーツを楽しむ機会が少ない。盲人用に考えられた、ハンドボール大の球を転がして行うグランドソフトボール(盲人野球)や、ネットの下をくぐらせながら行うフロアバレーボール(盲人バレー)などは、健児も体育やクラブ活動でやることがあったが、いわゆる野球やサッカーなど一般の球技は盲人にとってイメージすることが難しく、テレビやラジオの前で熱くなって応援したりするということはあまりなかった。
 逆に陸上は、ゴール方向から鳴るサイレンを頼りに走る徒競走や伴走付きの長距離走などがあり、それらを行う学校の行事や大会なども多くあるため、また、競技自体が球技よりは単純なため、イメージがし易く親しみがあった。
 「深田の予選のレースは、十時十分スタートだ。陸上はだいたいスケジュール通りに進む。俺はちょっとサッカーに行って来る」
 パンフレットを見ながら飯坂はそう言って、席を外した。
 陸上競技場はさらに独特の雰囲気を漂わせていた。アナウンスや応援の声の響きを聞いていると、健児にもスタンドがすり鉢状になっているのが分かった。ガラス蓋を開け、中の針に触れて時間を知ることができるようになっている盲人用の腕時計で時間を確認すると九時四十分だった。前の晩眠っていないせいもあって、頭が重い感じがしていた。その時、健児はいきなり肩をたたかれた。
 「健児君」
 朱実の声だった。
 健児には分からなかったが、朱実はジャージ姿だった。ショートカットに大きな目、ふっくらとした頬は練習に明け暮れていたはずなのにあまり日に焼けておらず、もともと色白なのがよく分かった。
 「来てくれてありがとう。これから集合時間なんだ。私は第三コース。組み合わせが悪くて、もしかすると予選で終わっちゃうかも。でも自己ベストを破れれば負けてもいいんだ。自己ベストは十三秒四三。百メートルだからあっという間だけど応援してね」
 朱実がレース前の大事な時間なのにスタンドまで上がって来てくれたのだった。飯坂が朱実に健児の居場所を教えたに違いないと思い、健児は飯坂に心の中で感謝した。
 「声は出せないと思うけど」
 朱実とメール交換をするようになってからほぼ一年。初めて面と向かって話をした。
 「心の中で応援してくれるだけで十分」
 そう言って、朱実は健児の右手を取り、握手をしてきた。細く温かい手だった。わずか二秒ほどの時間だったが、健児にはその何倍もの時間に感じた。心拍数は上がり、一瞬にして冷たかった手のひらから汗が滲んできた。
 「それじゃ、行って来ます」
 朱実は集合場所に去って行った。
 「頑張って…」
 と言おうとしたが、シャンプーだろうか、朱実が残した桜の花に似た香りで、さらに鼓動が高まり言葉が出なかった。
 「もし目が見えたなら…」
 今ほど強く切実にそう思ったことはなかった。健児は激しく動揺した。
 あらゆる物を「見た」ことが無い健児には、「見える」ということがどういうことなのか、イメージができない。ただ、「見える」ことで、今よりも遥かに朱実の実像を掴むことができるだろうということはその時はっきりと分かった。
 目の前にいるスタート前の朱実の姿を心に焼き付けたかった。生まれて初めての切ない気持ちが胸を津浪のように襲った。自分を守らないと気が変になりそうだった。健児は堤防の重い水門を閉めるような気持ちで、
 「十三秒四三、十三秒四三…」
 と何度も何度も頭の中で繰り返した。

 「下に降りるぞ」
 突然飯坂が声を掛けてきた。
 「下に降りるって…」
 「ちゃんと許可をもらってきたから大丈夫。もっと近くで応援しよう」
 そういうと飯坂は健児の左腕を取り、自分の右肩に置かせると、人ごみのスタンドを抜け出し、何人かの競技役員にあいさつをしながらスタンドの下をくぐり、競技場に出た。
 「よし、ここがいい。ここはだいたい五十メートル付近だ。五メートル先はコースで、スタートはあっちだぞ」
 そう言いながら、健児の体を左の方向に向かせ、さらに言った。
 「いいか、しっかりと応援しろよ」

 「第三コース、百三十二番、深田朱実さん、盛岡高校」
 女子高校生の声でアナウンスがあった。
 健児は全神経を集中して、スタート地点に立っているユニフォーム姿でスパイクを履き、スッと立ち、緊張した表情の朱実をイメージしようとした。しかしやはり形にはならなかった。ふと見えないことの悔しさがまた湧き上がってきた。涙も滲み出てきた。一度落ち着いた心拍数が再び最高潮に上がった。
 「位置に着いて、よーい」
 「パン!」
 ピストルの音はその日の空気と同様に乾いていた。
 「深田、行け!」
 飯坂の声が響いた。
 スタンドからの歓声が邪魔をしたが、朱実たちの足音が迫ってくるのが確実に健児には分かった。
 「スタートがちょっと・・・」
 飯坂の言葉に、健児が思わず反応した。
 「朱実!行け!」
 選手の一団が風になって健児の前を通り過ぎた。選手らのスピードとその必死さがこれまでに経験のない圧力となり、健児は一瞬恐怖すら感じ、体が強張った。

 朱実は三着で準決勝には進めなかった。それでもスタンドに戻った健児はアナウンスに集中していた。飯坂はサッカーの会場に行っていた。しばらくして朱実のレースの結果がアナウンスされた。
 「三着、百三十二番、深田朱実さん、盛岡高校、記録、十三秒三七。四着…」
 「よかった」
 心の中で呟いた。
 健児は鼓動の高まりと並行して、まるで自分が走ったかのような充実感も感じていた。

 一時間ほど他の競技が進むのを聞きながらスタンドに座っていると、
 「サッカーもやっぱりダメだったよ」
 飯坂がそう言いながら迎えに来て、競技場から出た。二人で駐車場に向かって歩いていると後ろから朱実が走ってやって来た。
 それを察した瞬間、一度落ち着いていた健児の鼓動は不規則なリズムを刻みながら再び早くなってきた。
 「惜しかったなあ。組み合わせがな。予選で落ちる選手じゃないのに…」
 飯坂の言葉に健児は反応せず、朱実に言った。
 「よかったね」
 「ありがとう」
 飯坂が怪訝な顔をしていると、
 「タカッチ、最後のレースで自己ベストです。しかも初めての十三秒三台。褒めてください」
 朱実が言った。
 「そうか、そうか」
 飯坂は、一度にたくさんのことを理解したように頷いて、今度はとてもうれしそうに、
 「おめでとう」
 と言った。
 「ありがとうございます。スタートを失敗しちゃったけど、健児君の声が聞こえた五〇メートル辺りからはいつもの走りが出来ました。ものすごく満足です」
 「おい、俺のほうが声はでかかったぞ」
 飯坂が言うと、間髪おかずに
 「全然聞こえませんでした」
 と笑いながら朱実が言った。飯坂も笑っていたが健児は笑っていなかった。
 「桜がきれい」
 朱実が言った。
 「ほんとだな。もうすぐ満開ってとこかな。ほら、健児も触ってみろ」
 飯坂が健児の右手を取って、低い枝に咲いている桜の花に触れさせた。健児の脳裏を一瞬だけよしお先生がよぎった。
 「これはもう満開…」
 やっとの思いで健児が言った。
 「そうだな、満開だな。さすが健児だ」
 健児は枝に近付いて鼻で深く深呼吸をした。それはスタンドでの朱実の髪の香りを思い出させ、心臓のドラムはさらに不規則なリズムを刻み、それは体中の毛細血管まで届いて、頭の中では何の秩序も存在しない滅茶苦茶なフリージャズが大音響で鳴り響いた。健児は立ちすくみ、その音の津浪が引いて行くのを必死に待った。

 「ちょっと疲れました」
 帰りの車の中で健児がそう言うと、飯坂はあまり話しかけてこなかった。飯坂が缶コーヒーを買ってくれたが、それにも手を付けず、冷たいその缶を右手で強く握り締めていた。車内は煙草の匂いが染み付いていたが、飯坂は生徒を乗せているからだろう煙草を吸わなかった。父のセダンとは違う、4WD車の大きな横揺れと、車内に流れるマイルス・デイビスのミュートトランペットの音色と煙草の匂いが健児をさらに切なくさせた。

 自分の部屋に戻って一人になっても健児の動揺は続いていた。明かりはやはり点けなかった。いつもの習慣で部屋に入るなりCDラジカセの再生ボタンを押した。ベッドにうつ伏せになっていると昨夜眠れなかったせいか、眠気が襲ってきた。しかし、ぐっする眠ることは無く、やはり現実と夢の挟間でもがいているような浅い眠りだった。

 何時間そうしていたのだろう、微かな頭痛を感じて健児は起き上がった。Tシャツの首周りに寝汗も掻いていた。健児は動かすとこめかみの辺りに鈍痛が走る頭で、今日一日の出来事が夢では無かったことを確認しようと反芻した。運動公園全体の暑さと陸上競技場の熱さ、そして朱実の手の細さと温かさを思い出したちょうどその時、携帯が鳴った。朱実からのメールだった。
 「今日はありがとう。お陰で悔いの無いレースができました。健児君の応援してくれた声が今でもはっきり聞こえます。今度は私が何か健児君の役に立ちたいんだけど何か無いかな?」
 健児は嬉しくなかった。それどころか逆に怒りのような感情が湧いてきた。
 「なにもない」
 すぐさま朱実からメールが届いた。
 「どうかした?何か気に障ったならごめんなさい」
 健児は返信しなかった。そして布団にうずくまった。朱実からもメールは来なかった。

 さらに時間が経過した。健児はしばらく布団に顔を埋めながら、さらに酷くなったこめかみの痛みとそれ以上に耐え難い心の痛みとぎりぎりの戦いをしていた。そんな時、
 「♪ピキャン!」
 CDラジカセからエンドレスで流れていたセロニアス・モンクが奏でる「ラウンド・ミッドナイト」の切ないブロックコードがその心の堤防に穴を開け、溜まっていた濁流が一気に健児を丸ごと飲み込んでいった。
 「朱実が見たい」
 情けなくて泣きたい気持ちと、あてのない怒りが交互に現れ、「ちくしょう」と叫んでいた。無意識に自分の頭を手のひらで強く叩いた。壁も拳で殴った。その感触は拳や頭皮を通り抜け、自傷したという事実だけが心の奥底に到達し、初めて痛みとなった。
 健児は堪らずベッドから起き上がると、階段を下り、玄関で白杖を手にし、外に出た。父親も母親もまだ帰宅しておらず、美紀は自分の部屋にいたが、それに気付かなかった。

 風は少し冷たくなっていた。健児には分からなかったが、外はすでに薄暗くなっていた。Gジャンだけでは肌寒かったが、それも健児には感じなかった。健児は白杖をいつもより乱暴に左右に振りながら歩き始めた。歩いたことのある住宅地の歩道を歩いたが、頭の中は混乱し、交差点の歩道のわずかな段差で何度も躓いた。

 二十分程歩き、住宅地と市街地を繋ぐ交通量の多い大きな道路に出た。父親の車に乗せられて数え切れないほど何度も通った道だったが、歩道を歩いたのは初めてだった。
 行き交う車のエンジンとタイヤの音に、さらに健児の頭は混乱した。
 広い歩道に歩行者はまばらで、点字ブロックがあったが、健児はそれを無視して歩いた。白杖をガードレールの柱に引っ掛けて転びそうになった。音声信号の交差点では進行方向でない音で渡ろうとし、車にクラクションを鳴らされ、「ちくしょう」とまた声を出した。前後から通り過ぎる高校生らの自転車にもベルを鳴らされ、時には「危ねえな」と言われ、その度に「ちくしょう」と呟いた。
 健児の足は、知らず知らずのうちに市街地に向かっていた。靄がかかったその頭にかすかに目的地が見えていた。しかし、誰に道を尋ねることも無く、親切に声を掛けてくれた人達に礼を言うことも無く、ただひたすら重たい頭で歩いた。怪訝な顔をして自分を見ている人々の顔を想像しては、「ちくしょう」とまた呟いた。

 四キロ程歩くと、国道四号線と交わる大きな交差点に出た。大型トラックなどの往来で一段と大きくなった車の騒音に健児の頭の中の情けなさと怒りによる混乱は摩擦を起し、高温で膨張したような状態になった。
 周囲のざわめきと音声信号に反応して歩を進めたが、横断歩道から完全に外れ、電車のように連なる自動車が走る交差点の中心に向かった。いくつかのクラクションとブレーキの音が重なって鳴った。グッと手を引っ張って、助けてくれた年配の女性の「危ない!」の言葉に健児は怒りすら感じ、同時に涙があふれてきた。渡るまで誘導してくれたその手を振り解くように無言でさらに歩き始めた時、頭は完全に飽和状態となり、麻痺していた。

 歩き始めて二時間が過ぎ、岩手大学の前を過ぎる頃、風はさらに冷たさを増した。キャンパスには、やはりたくさんの桜が咲いていたが、今の健児にとっては、気付く事無く通り過ぎて来た道端のバス停と同じで、全く無意味な存在だった。

 市街地が近付き、すれ違う人の数も増えてきた。二度躓いて転び、掌や膝を擦り剥いたが、全く痛みは感じなかった。ただひたすら涙を流しながら歩いた。白杖が停車している自動車に当り、またクラクションを鳴らされたが、すでに健児の耳には届かなかった。チノパンのポケットの中の携帯電話が何度も振動していたが、やはり健児には感じなかった。

 盛岡中心部を走る片側二車線の大きな道路を横断すると、全国的に見ても珍しい程の数の映画館が立ち並ぶ繁華街に入った。すでに目的地への経路からは外れていたが、今の健児に気付けるはずも無かった。空はすでに真っ暗だったが、そこは昼よりも明るく賑やかだった。花見の時期に加えて、土曜日だったせいで酔った学生が多く行き交っていた。雑踏の中、すれ違う人の酒の匂いを感じた時、麻痺していた健児の耳はふいに機能し始めた。楽しそうに会話するカップル。誰彼ということなく馴れ馴れしい言葉を必要以上に大きな声で交わすグループ。未熟なことを逆に盾にして、その時間を謳歌している自分と同世代の若者たち。「青春」という言葉。自分には分からない世界。経験することがないかもしれない世界。情けなさと怒りが再び全神経を麻痺させた瞬間、健児は歩道に止めてあった自転車に躓き、前のめりに大きく転んだ。その音に反応し、数え切れない程の人達が振り返る中、自転車はドミノとなって、さらにガラガラと音をたてながら何メートルも向こうまで倒れていったが、健児の耳は再び完全に閉ざされ、その音が聞こえることは無かった。

 健児が家に居ないことに気付いた親から連絡を受けた飯坂は、車を走らせ、住宅や盲学校の周辺を探し回っていた。父親も住宅周辺から盛岡駅まで足を延ばして探していた。
 飯坂の車がやはり花見客で賑わう盛岡城址、岩手公園前の信号で停車していた時に携帯電話が鳴った。健児からだった。

 警察署は官庁街にあり、数分で飯坂は到着した。小さな会議室に一人の警察官とうつむいて椅子に座っている健児がいた。
 「盲学校で担任をしている飯坂です」
 名刺を見せながら、そう名乗った飯坂に警察官は経過を説明した。
 混雑した大通の歩道で健児が、たくさんの自転車とともに倒れており、大勢の人に囲まれていたこと。多少の擦り傷はあったが、意識があり、本人が「大丈夫」というので、救急車は呼ばなかったこと。パトカーで警察署まで連れてきたこと。ここに来た頃には、質問にも答え、一人で外出したことに特に意味は無いと言っていたこと。親に連絡するように言ったこと。破損物も事件性もないのでこのまま帰って構わないことなどを話した。
 飯坂は礼を言ったあと、すぐに健児の家に電話を入れた。健児から電話があって、すぐに連絡をしていたが、再度自分がこれから連れて帰ることを伝えた。

 「どこに行く気だった?」
 警察署の駐車場を出ると飯坂が訊いた。
 「石割桜…」
 健児はディーゼルエンジンの音で掻き消されそうなくらいに小さな声で言った。
 「そっか、寄って行くか?」
 「いや」
 「遠慮するな。家には遅れると言っておくぞ」
 「自分の力で行きたかった…」
 飯坂は健児が取った行動の意味を微かに理解した。
 「で、散歩はどうだった?」
 健児の目からまた涙がこぼれ始めた。
 「何も出来なかった。十七にもなって一人で花見にも行けなかった。何にも出来ない、何にも出来ない。俺はやりたいことの一つも出来ないし、好きな人の顔も分からない。ひたすら人の世話になって、同情され、足手まといになって、迷惑がられて生きていくんですか?こんな俺に将来どんなことが出来るって言うんですか!どんな夢を持てって言うんですか!俺には全く分からない」
 飯坂の車の中に健児の嗚咽が響いた。
 五分程その嗚咽は続いた。飯坂はハンドルを握りながら、ひたすらそれを聞いていた。そして少しだけそれが治まりかけてきたのを見計らって飯坂は静かに口を開いた。
 「石割桜には行ったことがあったのか?」
 「…小学二年の時に…担任の先生と」
 「そうか…」
 飯坂は少し考え込むと、交差点で家に向かう道と違う方向にウィンカーを出し、再び静かに話し出した。
 「俺はお前たちの頃、人の役に立つ仕事がしたいな、とは何となく考えていたけど、それが何か分からなかった。分かったのは役場で夜遅くまでデスクワークに追われるようになってからだった。役場では福祉の担当で、それなりにやりがいはあった。それこそたくさんの人の役に立つ仕事だからな。社会に出て初めて分かったんだが、何の仕事をしたって、人の役には立ってるんだよ。豆腐屋でも、大工でも、スーパーのレジ係でも。でもな、何かが違った。デスクワークでは、誰の役に立っているのか実感が出来なかったんだ、俺には。そんな時に親友が癌で死んだ。健児も知ってる人だ」
 思い当たる人は一人しかいなかった。
 「よしお先生…?」
 「そう、田口義男。初任が盲学校で、お前の担任をしていた。いい奴だった。いい先生だったろ」
 「はい…」
 「田口とは、高校の一年の時に同級になって仲良くなった。あいつは俺と違ってその頃から、はっきりと目標を持っていた。障害児教育をしたい、と。あいつの弟は自閉症で、養護学校に入っていた。家に遊びに行ってその弟と会ったこともあるけど、手や体をフラフラ揺らしながら、テレビに噛り付いてるその弟に俺は全くどういうふうに接していいのか分からなかった。でもあいつの家族は本当に暖かい家族で、そこに自閉症の子供がいるとは全然思えないぐらいに明るかった。だから田口が障害児教育を目指すのもごく自然な形なのかな、と思っていたし、すごくいい先生になるだろうな、とも勝手に思ってた」
 よしお先生の弟の話は、健児にとって初耳だった。
 「あいつから健児の話を聞いたこともある。ちょうどお前の担任をしていた頃だと思う。頭がいいとか、桜の花が好きだとか言ってた。でも、それ以上にお前の話をするときに何度も何度も繰り返していう言葉があった。何度も言うもんだから飲みながらだったのに今でも覚えてるんだ。何だと思う?」
 運動公園で味わったのとは違う切なさを感じていた健児には何も予想が付かなかった。
 「『可愛い』だよ。とにかく可愛い、可愛いばかり言ってた。まるで自分の子供みたいに」
 健児の目のさらに奥のほうからまた涙が溢れ出てきた。
 「充実した仕事をしているあいつがうらやましいって思ったよ。その飲み会があいつに会った最後だった。その三年後にあいつは死んだ。あの頃は携帯も無かったし、男友達ってまめに連絡を取り合ったりしないからな。その年の年賀状にも『今年こそ一緒に飲もうな』としか書いてなかったし、病気のことも全く知らなかった」
 車が止まった。飯坂が運転席と助手席の窓を同時に開けると、健児の火照った顔と頭にはむしろ心地いい肌寒い風と桜の花の香りが車内に一気に入り込んできた。その空気と頭の中の地図をたどることで健児にはそこが体育の時間にランニングをしながらよく来る、やはり盛岡の桜の名所の一つ「高松の池」であることが分かった。
 ふと飯坂が煙草を取り出して火を点け、一息吸ってから言った。
 「知ってるぞ、吸うんだろ。寄宿舎の加藤先生と俺だけは知ってる。吸うか?」
 健児は一瞬たじろいだが、
 「はい」
 と返事をした。吸いたかった。
 飯坂は一本の煙草と蓋を開いたジッポーを健児に渡した。慣れない手つきで健児は火を点け、煙を吸い込んだ。煙草はメンソールではない強い煙草だったが、今の健児には調度良い刺激の強さだった。
 健児の右手を取り、灰皿の位置を教えた飯坂はまた話し出した。
 「葬式の後で田口の母親と話をした。あいつは抗がん剤治療の副作用で髪の毛がすっかり薄くなって、げっそり痩せた顔で、当たり前のような口調で母親に言ったそうだ。『学校に早く戻って子供達と遊ばなきゃ』って…」
 飯坂の声も震えていた。
 健児は涙を流しっぱなしにしていたが、煙草を揉み消した手でとうとう拭った。飯坂の言葉は、もはや何のわだかまりも無く健児の心に入り込んで来ていた。
 「役場に入って、七年目の秋に俺は完全に仕事に行き詰って、ストレス性の神経症に罹った。しばらく家で休んでいた時に、ずっと俺はお前の話をしている田口を思い出していた。あんな風に充実感を持って仕事がしたいと思った。そして、あんなに充実していた仕事の途中で死んでいった田口はどんなに無念だっただろうと思った。俺の大学は田口と違って三流の経済学部だったけど、社会科の教員免許は取れる大学だった。金のかかる私立に入れてくれた親の願いでもあったから、免許は一応取った。結果的にそれが俺を救ったんだ。周りからは反対されたけど、俺にはもうブレーキがかからなかった。三月に退職願を出して、七月の教員採用試験まで必死に勉強した。自分でも信じられないぐらいに。そして受かった」
 「高校の友達も先生もみんなびっくりしてた。劣等生だった俺が高校教師になったんだからな。でも自分で言うのも何だけど、不思議じゃないんだよ、全然。何故だと思う?」
 「エネルギー…ですか?」
 「そうだ、役場での経験と田口だ。それが俺のエネルギーだった」
 落ち着いてきた健児の様子を見て、飯坂は続けた。
 「俺には全盲の不自由さは分からない。お前の悩みも共感してあげられない。でもこれだけは言える。いいか健児、田口は死んだが、お前は生きている。生きているってことは可能性があるってことだ」
 健児の涙は止まっていた。
 「健児、俺はこう思う。人間同士は繋がっている。縦にも横にも。桜の花同士が枝で、枝と枝が幹で繋がっているように。人間は誰でも誰かに支えられて生きている。子供や老人だけじゃない。誰でもだ。田口がお前達に支えられ、俺が死んだ田口に支えられたように。だから逆に誰かの役に立たなきゃならない。それが人間の生き甲斐だ。もちろん全盲のお前もだ。健児、誰かの役に立つ人間になれ。それが生きるエネルギーになる」
 再び車は動き出した。
 「タカッチ、クサイよ…」
 健児は、運転している飯坂にやっとで聞こえるぐらいの声で呟いた。

 遠回りしていた車は健児の家に着いた。車が止まる音を聞いて健児の両親と美紀がすぐに出てきた。父親も母親も飯坂に礼を言っただけで、健児を問い詰めることは無かった。
 「ありがとうございました」
 健児も飯坂に礼を言い、母親と美紀と一緒に家に入って行った。母親は何も言わなかったが、健児には泣いているのが分かった。健児も言葉には出さなかったが、心の中で詫びた。
 飯坂は警察官から言われたことを父親に伝えてから車に乗り込んだ。

 部屋に戻り、思考力を取り戻した健児の頭の中で、飯坂の声が再度響いた。
 「人間同士は繋がっているんだ。縦にも横にも。いや?がらなくちゃいけない」
 それに重なるようによしお先生の言葉も頭をよぎった。
 「桜の花の命はとても短いけど、その桜の木はずっと生き続ける。なんとなく不思議な感じがするな」
そして、健児は独り言を言った。
「桜の花か、それとも桜の木か…」
交差する言葉たちの中に微かに何かが見えかけていた。
 盛岡でも比較的早く咲き始める石割桜はすでに散り始めになっていた。

つづく

第23回さきがけ文学賞選奨受賞作(2006年)
2007年ソニー・デジタルエンタテインメントより電子書籍発行 iBooks、Kindle、コミックシーモア等から販売
現在の出版権、著作権は著者に帰属

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