「表紙のチビちゃん」
農協の広報誌にMirai Clubと言うのがある。表紙は毎回小学校低学年くらいまでの子供の笑顔の写真で、非常に微笑ましい。表紙を捲ると冊子の目次とともに表紙の子供の紹介文とご両親のコメントが掲載されている。この紹介文のコーナー名が「表紙のチビちゃん」だ。表紙にもコーナーにも何ら不満はないが、毎回このコーナー名に引っかかる。
別にローティーンの子供をチビちゃん呼ばわりしている、と不満を抱いたわけではない。むしろ逆で「チビ」といういい回しが昨今の風潮により侮蔑的に捉えられる可能性を危惧しているのだ。
「チビ」は一般的に身長の低い事を侮蔑的に表現する言葉だ。それは間違っていない。ただここでの「チビちゃん」はまだ小さな子供を愛らしく表現している。決して侮蔑的な意味合いではない。しかし「チビ」という表現に対する言葉狩りによってこうした表現方法が使えなくなるのではと不安を感じている。
このコーナーを見ると、最近見聞きした話で学校で子供たちを整列させる時に身長順に並べさせるのはいかがなものかと言う話を思い出す。身長にコンプレックスを持つ子供たちを傷つけているから、身長順で並べるのは良くないという話だ。身長順に整列させるというのにも一定の根拠がある。自分より身長の高い人が前にいないことにより極端に子供の視界を塞がない、また教師側からも子供たちを確認しやすい、など集団行動上の効果を維持する理にかなった内容が主である。
私はこの身長順否定派の考え方を、過剰反応だと捉えている。背が低いことをストレスやコンプレックスを感じている子供もいるかもしれない。1番前になったらどうしようと不安を持つ子供もいるかもしれない。しかしそういった子供を仮定して仕組みを変更するのはあまりに性急で短絡的だ。そもそも身体の成長など必ず個人差が生まれるものであり、かつ解消し得ないものだ。運動能力も4月生まれの子と3月生まれの子では体格も異なり、体力差・筋力差がうまれるのは一般的に周知のことである。
このお互いの違いを双方が許容することが『多様性』と言われることの本質ではなかろうか。そこを無視してシステムによって感じにくしよう、意識させないようにしようというのは、ただの過保護というか、子供から自分自身に向き合う機会を奪っているように見える。
背が低いことを「チビ」と言って揶揄するのを肯定するつもりはないが、「チビ」という言葉が持ついろいろな表現が「チビ」の一面的な意味合いで使えなくなってしまうことを怖く感じてしまう。そしてその事をあまりに単純化して捉えてしまう風潮にも息苦しさを感じる。
こういったシステムや慣習、テンプレ化した行動様式には不満や違和感を感じることがあるとは思うが、不満や違和感も『多様性』の一部として許容される、そんな『多様性』が育まれていってくれることを願ってやまない。
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