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洗うが如く(by 赤貧太郎)

さてさて、賢明なる紳士淑女の諸君におかれましては、私の書く法律のナンタラの拙い文章で、これはどういった意味なのかとか、何でこのような結論になるのかと嘆き、呻く声が聞こえてきそうであります。

少し息抜きになるようなエッセイをしたためようと書いたものの、日々、決まりきった仕事をして、決まりきった時間に帰宅し、趣味というものもなく、これまでの人生で、法律を少しかじったことがあるぐらいで、他に取り立てて人よりこれと言って優れているものがない。
デカルト風に言えば、
「我、思う。ゆえに、我、(書くこと)なし」
(なんかつじつま合わないないな。)
と思案としていたところ、
妻が「今月も赤字だわ。」とためいきをついている姿が目に入ってきた。
エウレカ
(注 かのアルキメデスが、風呂に身を沈めて溢れ出る水を見て、体積の計算方法を発見してかく叫んだという)
私も、アルキメデスのように、更に「エウリカ」と二度叫んだ。
妻の「今月も赤字だわ。」とのため息が私の創作の主題を発見させたのである。これは、かのニュートンが、リンゴが落ちるのを見て、万有引力の法則を大発見した如く、私にかの妻の一言が私のテーマを大発見させたのである。
そのときである。冒頭に安易に使っていたデカルトの名言が真理を帯びて心にこだまするのを感じた。
「我、(借金を)思う。ゆえに、我(借金を背負った自分)あり。」
なんと、かの妻の一言が、創作のテーマだけではなく、真理までも発見させたのである。
かのガリレオ・ガリレイが「それでも、地球は回る。」と言ったそうだが、
私も目の前に横たわる真実に目をそむけることができず、ガリレオと同じ状況であることを自覚しながら、妻を励ます意味で、
「それでも、首は回る。」とつぶやいた。

どうも、私には貧乏神がついているようである。
幼少の頃から、長屋に住み、そこそこの貧乏をしてきたはずであるが、もうすぐアラカン(around 還暦)に達しようという年齢になっても、離れてくれないのである。
じゃあ何とかすればよいじゃない。と言われそうだが、まず、我が家に節約という概念がないし、家族全員が将来の事を考えるのが苦手である(人間はもちろん、ペットもオカメインコとオキナインコを飼っているが、先のことを全く考えていない。ドラ息子二人に至っては鳥以下である。)。
しかし、私の性格だろうが10万円はぽんと惜しみなく散財してしまうものの、その代わりと言っては何だか、目の前の1円は節約するのである。セブンイレブンの一番安いパンが118円(税抜き)であるとか、スーパーで玉子一パックが253円から258円の間を上下してるとか、そんな細かい金額には気をつかうのである。
それにもまして、HOW TOの研究は家族全員怠らない。妻も長男も、一攫千金を夢見て、「大金持ちになる方法」、「投資で1億円稼ぐ」方法などの本は、次々に読み漁っているようである。

まあ、このような矛盾した生活を書けば、反面教師として皆さんの参考になるだろうと思った。なぜ借金が減らないかの原因は、分析途上であるから、書きながら考えよう。ついでにNOTE大賞に応募しよう。

まずは「形」から入るのは、人の常である。
「赤貧洗うが如し」という貧乏を表す言葉がある。
それこそ、40年以上も前になるが、朝日新聞の天声人語に「赤貧」を扱った論説が載ったことを覚えている。
 詳しい内容は忘れたが、前半は貰い物で暮らす詩人か何か文学者の話で、後半はなぜ、「貧乏のひどさ」を、「赤」で表すのかだったように思う(何せ40年以上も前の論説なので、朝日新聞さん、間違っていたらごめんなさい。)。
なぜ、「赤」なのか、論説の内容は忘れたが、酒を飲んで赤ら顔をしたオヤジのイメージが残っているので、それに近い事を書いてあったよう気もする。
まあ、「青」貧だと、何か深刻そうで、「黄」貧だと危険そうで、「緑」貧だと全くイメージがわかず、「赤貧」が感覚的にぴったり来るからかなと感覚的にも思える。

ところで、「翔ぶが如く」という司馬遼太郎の小説がありました。
これまた40年以上も前、高校時代の話です。本屋にうず高く積まれておりました。
これは、その当時、その本がドラマ化されていたのですね。
と言っても、私はそのドラマ見たことがない。
私は変な子で、今もっても変ですが、テレビは全く見ない。
中学生ぐらいから見ずに、アラカンの今までずっと見ない。
何か全てが「わざとらしく」、視聴者をすべてにおいて騙しているような気がして嫌なんですね。
話、横道にそれましたね。当時、なぜ、その本がうず高く本屋に積まれているのか、テレビを見なかったものだから分からなかった。
馬鹿だから、面白くてベストセラーになって売れているのだろうぐらいしか考えなかった。とりあえず、手に取って読んでみると面白い。そこで、司馬遼太郎にはまってしまった。
もともと、幕末の勤王の志士に興味があったわけでなく、どちらかと言うと幕府の方に魅かれた。と云うのも、母が小学生の私に買い与えた本は、名も無い作者が拙い筆で描いた、会津戦争の若くして散った武士の物語、そう、「白虎隊」の物語であったのである。なぜ、亡き母が、「坂本龍馬」、「高杉晋作」などに興味を示さず、幕府側であっても、「新選組」などをすっ飛ばして、わずか10歳に満たない少年に、名も無い作者の描いた「会津白虎隊」の本を誕生日のプレゼントとして買い与えたのか、永遠に謎のままであるが、とにかく、胸中に、「勤王の志士=絶対悪」の図式が芽生えたのであります。
しかし、時は流れ、少年は読書しか趣味のない高校生になったとき、母親の蔵書からスタンダールの「赤と黒」やロマン・ロランの「ジャンクリストフ」等を引っ張り出して読んでいたのだが、小難しくて、そこに、司馬遼太郎先生の「翔ぶが如く」が登場したのですね。
薩長の方々に対するコペルニクス的転回が生じるとともに、時代小説ってこんなに面白いのと、耽溺して夜を徹して読み耽る毎日で、成績が急下降していった事は後日語りましょう。
閑話休題。話は長くなりましたが、結論から言うと、「翔ぶが如く」の「如く」を頂いて、「洗うが如く」とエッセイシリーズの題名を考えたわけでありました。

次に「洗うが如く」であれば、抽象的すぎて何をテーマにしているのか分からない。具体的に何をテーマとしているのか。もっとはっきり書かなくていけないという思いにとらわれ、副題を設定することにしました。
しかも、HOW TO本ならいくらでも出ているので、誰もが取り扱ったことのない話題を取り上げないと、賢明なる紳士淑女の読者諸君からそっぽを向かれてしまうであろう。
これにはピーンときた。法律をかじった人なら、佐伯仁志先生の「刑法総論の考え方・楽しみ方」という名著があるのをご存知であろう。
これから、ヒントをもらい、誰もが取り扱ったことにないテーマ
「借金総論 お金の減らし方・失い方」
を副題とすることにしました。

法律のうんたらを書いて飽きたときに、エッセイを書いていきますので、暇だったら読んでください。



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