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舞台『 カモメよ、そこから銀座は見えるか? 』を観る視点についての1つの考察 ネタバレあります。

■こと戯曲を観劇するのに、今の世の中の常識だけの視点で理解をしようとすると〘わからない〙ものになり兼ねないし、それを打ち砕くことが前提ですらあります。
■世の中とは、現実の世界を指し、そのモノサシだけで測るから無理が来るし、理解を超えたところに、魂は存在していることを、思い起こしてみるとみえてきます。
        
■本作は元々海であったはずの銀座という地の空気感の中に舞台設定していることが前提となってますよね。
■銀座から丸の内界隈まで、これから初夏にかけての風は、まさに元々海岸沿いなのだということを、心地よい日差しとともに、感じることができるのをご存知だろうか?
■その違和感を肌で感じれる場所を舞台に選んだのは、魂の異空間が交わることが出来るからなのではないか、と自ずと期待が膨らみます。

■それは、つまり、あの世とこの世ではない、そこには魂が交差する空間なんだろうと思うわけです。

(以下ネタバレあり、観劇前の方はご遠慮ください。)

■DNAが心と心を呼び寄せることも、この戯曲のもう一つの枝葉でもありました。
■紛れもなく存在する魂がこの世に生まれていないまでも、その空間では育って生きていた、DNAが引き寄せてしまった罪を生まれてない魂は死を選んでしまう。
■ところが、それさえも幻となり、また場面は繰り返していく。
■命の儚さと偶然の重なりが、現世では起こっているんだと、いうことに、絶望とも似た感覚に陥ってしまう。    
■ホンの少しのズレや気持ちの移り変わりで、魂は翻弄され、この世に生まれるか否かを左右されることを直視せざるを得ないし、その現実に驚かざるを得ない。
■この地球に生まれること、のみが魂の交流ではないという可能性を示してくれる。

■黒島結菜の役どころ
相手の発する言葉、発言の意図を、いとも簡単に相手の気持ちまでも見透かし、心地よいほど心理を問う妹役を見事に演じきってます。
魂に向けて、2つの方向へ向け、交互に錯綜しつつ演じきります。
途中、過去と現世と未來の時空間も入るのかとソワソワしましたが、そこは、ブレずに、今を生きてました。

しかしそれは生命としての人間ではなく魂との交流をすぐそこにあるものとして元々海辺であった土地の空気感は、人間が人工的に変えたとしても、空気感は、変わらない風を舞台に吹かせてくれ、その空気感を観客は目の当たりにするのです。
黒島結菜の、彼女の眼差し、は太古の時代からその場所に漂う海の風を受けていました。

■舞台では、唯一、岩松了が演じる先生だけ、見えてない。見えてる、見えてないという区分が、実は舞台の上に回答として存在し、表しているところも興味深い。赦すことのテーマには関わらないし、酸いも甘いもわかりきってること、そういったキャラクターであることも、必要な存在であります。

戯曲家は、死を使い、扱います。勿論その前に、生きることの苦悩と命を育むこと、赦すこと、堕胎もテーマに入り混じります。それは宗教のストーリーとも相似し、経典すら戯曲家によるものとも思える節さえあることを、思い起こしました。魂の修行場である地球に産まれいでた我々の頭では理解を超えたところに、魂の存在はあるのではないか?と改めて感じた、私にとって、そういう舞台でした。名演です。

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