極彩色の(悪)夢
2023年に開催された「アレックス・ダ・コルテ 新鮮な地獄」の鑑賞録を加筆修正したものです。
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久しぶりに美術館へ足を運び、現地で作品鑑賞する機会があった。アメリカを拠点に活動するコンセプチュアル・アーティスト、アレックス・ダ・コルテの個展である。(最終日に滑り込んだ。)
大衆的イメージやビビットな色彩でもって、観る者の心の深いとこにある記憶だとか、それに結びつく心情を引き出していく、と、そういう作家さんだという。
大衆的イメージというのはつまり、アメリカ中流階級に属する人たちが小さな頃からテレビだったり本だったりと言ったメディアにおいて慣れ親しんできたモチーフやキャラクター。ディズニーやセサミストリートなどなど。日本で言えば、ドラえもんとかクレヨンしんちゃん的な国民的キャラクターだとか、タモリや明石家さんまといった大御所司会者の立ち居振る舞いといったところか。
物心もつかぬほどに小さな頃から、特に注意はしていなくとも、確かにそこにあったイメージたち。勝手に(無)意識領域に流れ込んでくる映像、偶像、記号。そういったものが彼の作品の基盤になっているということかもしれない。
《ROY G BIV》(ロイ・ジー・ビヴ) (2022)
展覧会のはじめにある大型の映像インスタレーション。60分。(長っ。)タイトルは虹の7色の頭文字からきている。
この作品は「The end」という文字から始まる、劇のような形をとる。マルセル・デュシャンに扮したダ・コルテが、世界と芸術の形について語りながらひとりチェスをしたり(デュシャンは作品を作らなくなった後、ずっとチェスばかりしていたという)、デュシャンが女装したキャラクター「ローズ・セラヴィ」に扮したダ・コルテが歌とダンスを披露したり、ブランクーシの彫刻《接吻》が失恋の物語を演じたりするなど、現代アートの祖と呼ばれる作家や作品たちのパロディ、作品の再解釈が、そこかしこに見られる。
「ローズ」の登場シーンで「Applause」(拍手)を促すランプが点く、失恋して傷心の《接吻》の片割れが、その思いをコンサートにてバンドをバックに歌い出すなど、ところどころにアートという言葉の堅苦しい響きとは無縁な、それこそTVショーのような演出が散りばめられている。
それは幕間でさえも。一幕終わるごとに10分のインターバルを取るというのもミュージカルを劇場で観ているようで、美術館で観る映像作品としては珍しいシステムに思える。
アレックスアレックス・ダ・コルテの作品は、四角いスクリーン付きの箱の中からリアスクリーンで投影する形になっているものが多い。プロジェクターは観客の目につかない。まるで巨大なブラウン管テレビみたいで面白い。60分の演劇のテレビ中継を見知らぬ人と眺めているような感覚になってくる。
テレビがまだ高価で貴重なものだったころ、日本には街に共用のテレビがあった。小さな画面を見上げて、公園でテレビを観る人たちの写真を見たことがある。なんだか構図がまさにそんな感じ。
会期中に7回、映像を投影しているボックスの色を塗り替えるパフォーマンスも見られたらしい。僕が訪れた時は、最終日ということもあり、色は-"ROY G BIV"の"V"-濃いめの紫だった(椅子までくまなく紫に塗装されていた)。紫というか遠目から見たらほぼ黒だったけれども。展示室、暗かったし。
カタログに載っている記録写真では、ボックスの色は鮮烈な赤だった。私は暗い紫色のボックスで作品を観たので、作品も含め部屋全体が割と落ち着いた空気に包まれているように感じたのだが、赤や黄色のボックスでこの作品を観るとよりポップに映るかもしれない。
《開かれた窓》(2018)
音楽家、アニー・クラークによる「ホラー映画で登場人物が犯人を発見した時」の演技をタイムラプスで撮影した作品。モチーフとなったのは、ヤングアダルト向けホラー小説シリーズ「フィアストリート」の『キャット』という作品の表紙だそう。
アニーの悲鳴は引き延ばされ、画面内をボールが転がり回る。ボールの柄はハロウィーンの仮装用コンタクトレンズが基となっていて、アニーのシリアスな演技、引き延ばされたおどろおどろしい悲鳴とは対象的。過剰なまでの高彩度、イメージの乖離、そして迫ってくるハムノイズが、観る者の中にある不安と恐怖を煽る。
展示室内はビビットなオレンジにペイントされ、オレンジという色の持つ陽のイメージとは正反対の、奇妙な緊張感が漂う。アニーの悲鳴が悲壮なものになる程、プールボールの賑やかな色彩が、それを嘲笑うかの如く画面を横切っていく。
ポップなアイコン同士がぶつかり弾ける様は、ゆっくりとした悲鳴の響き、アニーの表情も相まって、猟奇的な感じさえする。
《チェルシー・ホテル No.2》(2010)
非常にエロティックでショッキングな詞を持つ、レナード・コーエンの同名の楽曲タイトルを題名に冠した映像作品。ダ・コルテが大学院を卒業し車で帰宅中、車に積んであった作品の構想が書かれたノート、素材などを全て盗まれてしまうという事件の後製作されたという(!)。
映像を作る素材がハムやパン、コーラなどの日用品であり、観客の身近にあるものであるだけに、スローモーションで映し出される淡々とした所業に宿る官能や柔らかな感触、匂いの記憶が浮かび上がってくるようだ。
展示室全体が不二家の「ミルキー」のようなむせ返るほどの甘い匂いに包まれていた。(誰かの香水の残り香?気のせい?)匂いも作品の一部なのかと思うくらい作品の雰囲気と匂いが合っていた。人の記憶の中で一番長く残るのは香りらしいので、私の中ではこの作品の印象はしばらく不二家のミルキーになる。
《ゴム製鉛筆の悪魔》(2019)
2時間39分21秒の映像作品を、4チャンネルに分割し、それを4つのボックスに投影した作品。ボックスは互い違いに設置され、一つのボックスに注視している間は他のボックスの様子を確認することが困難になる。4つのボックスの映像を別々に全て初めから終わりまで確認しようとすると、単純計算でも優に10時間以上必要になるのではないか。
モチーフになっているのは、アメリカの地で生まれたカートゥーンのキャラクターや、ホラー作品・コメディで見られる典型的な表現の数々。関連性のないイメージの羅列が、鑑賞者の身体よりもずっと大きな4つのボックスに映し出され、作品は展開されていく。
コミカルでありつつもクレイジー、独特の恐怖を孕む映像群を前にして、観客はそのイメージの持つ意味、その繋がりを探ろうとするだろう。しかし、あらゆるジャンルからのモチーフの引用の寄せ集めである映像群には、そう簡単に意味の共通性やストーリーの連続性は見られない。いわばイメージの氾濫、洪水状態だ。
それぞれのボックスの前に集まり、食い入るように作品を見つめる観客たちは、さながらTVに夢中な子供たちのようであり、大量の情報に踊らされながらもそれを思わず求め続けてしまう現代の人間の姿の象徴みたいに見える。
「ゴム鉛筆の悪魔(Rubber Pencil Devil)」という言葉は、鉛筆の軸を持って振ると、木でできているはずの鉛筆がゴムのようにしなって見えるという現象から。この作品は、映し出されるモチーフの多様性により、アメリカという国の持つ文化の優れた創造性を示唆する反面、巷に溢れる情報の確かさや信頼性について疑問を投げかけてもいる。
終わりに
どの作品も興味深くコミカルなものが多かったのだが、どの作品にも共通するのが、捉えようのない不気味さである。これは、日用品という身近なマテリアルが奇妙な物語の舞台装置になっていることや、クレイアニメ、コスプレの効果かもしれない。見慣れたものの寄せ集めのはずなのに、意味や文脈が掴みきれない。「こいつは今から何をするのか」が予想できないことによって、作品を観ているうちに、捉えようのない不安が生まれる感じがする。この不気味さは恐怖というよりも生理的な嫌悪感に近かった。
「わけがわからないイメージ」に歩み寄られ囲まれる孤独と不安。増殖し、私たちの生活に氾濫する情報ーーイメージの不確かさが、その嫌悪感に反映されているような気がする。
アレックス・ダ・コルテが示した「新鮮な地獄」というのは、「色彩」の地獄であり、「意味の乖離」という地獄であり、「不確かなイメージに踊らされる私たちの日常」という地獄であったのかな、そんな地獄なら真新しいな、とようやく考えがまとまった気がしたのは、家に帰って一息ついた後だった。
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