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宗教や信仰についての雑記 #50

◯神秘主義?

様々な宗教に神秘主義というものがあります。
これは、神のような絶対者を、その絶対性のままに人間が自己の内面で直接に体験しようとする思想です。
宗教が形式化していくと、より直接的に神との結びつきを求める運動が起きるもので、多くの宗教に見られる傾向だそうです。

私も遍在する「実在」を実感できるような体験に憧れて、休日に瞑想の真似ごとなどをしてみるのですが、次の日には職場で朝からずっとイライラしているといった有り様です。

浄土真宗では阿弥陀仏の法身は、姿かたちのない目には見えないものとされているそうです。私はその法身を空性だと思っています。
しかし空性というものもまた空であり、それ自体のみにより存在する実体を持ったものではないそうです。
つまり世界に存在する「モノ」がなければ空性ということも存在しないということで、空性も様々なものによる「縁起」により存在している空なるものだということです。

だとすれば、煩悩に苦しむ衆生がいなければ法蔵菩薩の願はなく、法蔵菩薩の願がなければ阿弥陀仏は生まれなかったことになります。
誤解を恐れずに言えば、阿弥陀仏といえども空なる存在なのでしょう。

休日に瞑想の真似ごとなどをしても、翌朝には己の煩悩からイライラしている、そんな有り様では宗教体験などとても遠く及ばないなと、落ち込んでいたのですが、そのことの中に大切なことが隠されていました。
それは、そんな煩悩だらけの私と阿弥陀仏は、縁起による「不一不異」(同一でもなく異なるのでもない)という、言葉の論理では表せられない関係で結ばれているのだ、ということです。

以前の投稿(#31)で、「はじめから『私』という存在の奥底にまで『願い』が織り込まれて生まれてくる」と書きましたが、それは上記のような「不一不異」の関係のことなのだなと、今ではそう思っています。
これは冒頭に書いた神秘主義とは異なりますが、それでもこの考え方により、阿弥陀仏をより身近に感じられそうな気がします。

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