宗教や信仰についての雑記 #288
◯涙の道
前回、ネイティブ・アメリカンのたどった過酷な歴史についてほんの少し触れました。それを調べていたら「涙の道」という言葉と出会いました。
この涙の道とは、1838年にアメリカ合衆国のチェロキー族インディアンを、後にオクラホマ州となる地域のインディアン居留地に強制移動させたときのことをいうそうです。このとき、15,000名いたチェロキー族のうちおよそ4,000人から5,000人が途上で亡くなったと言われています。
また、「涙の道」という言葉は同じように移動させられた他の種族の場合にも使われたとのことです。
この言葉を知ったとき、これから「苦難の道」という言葉を連想しました。
これはヴィア・ドロローサと呼ばれるもので、イエスが十字架を背負って総督ピラトの官邸から刑場のあるゴルゴダの丘までの道のりのことです。
イエスは、その教えが自らの価値観や権威や利権を脅かすとみなした人たちによって処刑されました。その道は人間の欲望や恐怖、不安や憎しみから生まれたものとも言えると思います。
また、太平洋戦争の最中には「バターン死の行進」ということがありました。これは、第二次大戦中の日本軍によるフィリピン進攻作戦においてバターン半島で日本軍に投降したアメリカ軍・アメリカ領フィリピン軍の捕虜が、捕虜収容所に移動する際に多数死亡した行進のことを言います。
これは所謂「鬼畜米英」というスローガンが引き起こした、敵国人への憎悪がその根底にあったのだと思います。
ダライ・ラマ14世は、世界には様々な宗教があるが、それらには共通する教えがある。それは「良き人であれ」というものだ、といった意味のことを語っていました。
その「良き人であれ」ということは宗教に限らず、一般的な道徳的規範として我々の間で広く共有されているものだと思います。
しかし上記の三つの例だけを見ても、その教え・規範が有効に機能してないのは明らかです。それは一体なぜでしょう。
おそらくそれには大きな抜け穴があるからだと思います。それは、ある特定の集団に属する人々を「鬼畜」「動物」「悪魔」などと呼ぶスローガンを掲げて、人間とみなさなければ、その教え・規範は無効化されてしまう、ということです。このことは我々に重大な問いを投げかけています。
「テロリズムは決して許されない」「テロリズムに屈してはならない」といったことは、現在、我々の大多数が共通して持っている認識だと思います。
ならばテロリストは皆、無条件で殲滅されるべき存在なのでしょうか。テロリストは人間とは見なされず、基本的人権も認められるべきではないのでしょうか。
我々は今、その問いの前に晒されているような気がします。それに対してただ単に頭での思考ではなく、現実にそれに直面したとき、実際の行動としてその問いにどう答えるのか。
そのことが今まさに、我々に問われているのではないでしょうか。
「ホロコースト」という言葉の語源は、古代ギリシャ語の「ホロカウストス(holokaustos)」に由来しているそうです。この言葉は「全焼」を意味するとのことです。
一方「ナクバ」という言葉があります。これはアラビア語で「大災害」を意味し、1948年のイスラエル建国に伴うパレスチナ人の大規模な避難や追放を指しています。
「苦難の道」「涙の道」「バターン死の行進」、それら以外にも過去の歴史には数え切れないほどの悲惨な出来事があったのでしょう。
特定の集団に属する人々を決して除外せず、どんな他者であっても人であると認めること。人であるとみなさないことを許さないこと。過去の悲惨な歴史を繰り返さないためには、まずはその規範を「良き人であれ」という教えの前に置くことが必要なのだと思います。
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