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「 妖怪 」第3話

 恭子はそっと手を伸ばし、修の首と背中にはりついた髪をかき分けた。
「綺麗よ、このアザ」
「嘘だよ」
「本当よ。私は好きよ。細長く蛇行して、斑点が三つある。葉っぱみたいな形をしたのが二つ。何かの模様みたい」
 恭子は修のアザを指でなぞりながら言った。
 首の後ろ、髪の生え際から背中に向かっての細長いアザだ。
「……やめてよ。嫌いなんだ」
「あんたの印はこれだけ?」
「そうだよ」
「体に変化はないの?」
「満月になると、そこが少し疼くんだ。でも、我慢できないほどじゃない」
「そう」
 修の体から滴る水が、バスルームに静かに響く。
「私は山猫よ。でも、私の体に見て判る特徴はないわ。ただ並の人間より五感が敏感な事と、身体能力が高いってことくらい。修はどう?」
「よく判らないけど、僕、もっと子供の頃は、よく、……あいつらに出くわしていた」
「妖怪、化け物、物の怪。何だっていいけど、あいつらって言うのはやめて。お願い」
 恭子の声は淋しげだった。
「ごめん。つまり、妖怪が、僕に声をかけるんだ。僕は怖いから、心で思うの。あっちに行けって。近付くなって。そうしたら、大抵はどっかに行っちゃう。こういう事って偶然?よくある事?」
「試しましょうか?」
 修は背後から恭子に抱きしめられた。
「恭子さん……」
「私を追い払える?やってみて」
 恭子は修の体を自分の方へ向けさせた。
 恭子の力は確かに強かった。
「や、やめてよ。恭子さん」
「口じゃなくて、頭で言いなさい」
 恭子は修の髪を撫で、その首筋に唇を這わせる。
 やめて。
「恭子さん、やめて」
 修は目を強く閉じて言うが、恭子はその言葉には従わない。
 肩や耳にもキスをする。
 手は滑らかに修の体を這う。

 やめて。
 恭子さんのこと好きだけど、こんなの嫌だよ。
 やめてよ。
 やめてったら!

 修がそう強く思った瞬間、恭子は修から顔を離した。

 やめてよ。
 あっちに行ってよ。
 僕から離れて。
 離れろ!

 恭子の体が自分から離れたのが判ると、修は慌てて目を開けた。
 恭子は向かい側の壁に背を付け、もたれかかっていた。
 足に力が入っていない。
 両手で頭を抑え、ずるずると、今にも床に倒れそうになっている。
「恭子さん!」
 修は慌てて恭子の体を支えた。
「ご、ごめん、どうしよう、どうなったの?大丈夫?ねえ。ねえ、恭子さん?」
 恭子は顔をしかめ、何度か小さな呻き声を上げた。
 苦しい息づかい。
 修は恭子をそっと床にすわらせる。
「しっかりして、恭子さん」
 恭子はしばらく無言のまま呼吸を繰り返した。
 そして、何とか落ち着きを取り戻すと、目を開け、修を見る。
 弱々しい微笑み。
「修、あんた、凄い力があるのね」
「ごめん、よく判らないんだ」
「いいのよ、試したんだから」
「大丈夫?気持ち悪い?」
「うん。もう大丈夫。初め、頭が痛くなったわ。それから、体中が痛くなったの。細かく筋肉が痙攣してるような、つったような、自分の意思で体を動かせば、余計に痛みが酷くなると思えるような感覚。それが全身、指の先まで広がった。ビリビリって言うか、キリキリって言うか」
「もういいよ。判ったよ。ごめん、僕の為に」
「別に、あんたの為だけじゃないわ。どんなものか知りたかったのよ、私が。でも、ごめんね。あんたの正体、私には判らないわ」
「もういいよ。歩ける?」
「うん、ちょっと無理みたい。まだ、足に力が入らないの」
 そう言って笑った恭子に、修は微笑み返した。
「僕だって、普通の男並の力はあるんだよ」
 そして恭子を抱えあげ、寝室のベッドまで運ぶ。
 タオルを持ってきて、濡れた恭子の手足を拭いてやる。
「ねえ、修」
「なに?」
「あんたのお母さん、よほど力のある妖怪だったのよ。修が少し念じただけでこの様だもの。もしも本気出してたら、死んじゃってたかもね。私と同じ半妖だなんて思えない。あんたは下手な純血種よりも力があるかもしれないわ」
「やめてよ。僕、嫌なんだ」
「私は羨ましいわ」
 恭子は呟くようにそう言った。


 二人で暮し始めて、初めての正月を迎えていた。
 修は風邪をひいて、自分のベッドで眠っている。

 恭子からは、年末辺りから実家に帰れと言われていたが、修はぐずってマンションに居すわった。
 本当は風邪といっても、たいした事はなかったのだ。
 ただ、何となく家に帰る気にはなれなかった。
 いわば仮病のようなものだった。

 恭子は修のベッドに腰かけて、その顔を隠している布団をめくった。
「やっぱり起きてるじゃない」
「恭子さんが来たから目が覚めたんだよ」
「もうお昼になっちゃうわよ。起きる?おせち料理買ってきたけど」
「本当?起きるよ」
「無理しなくていいのよ。具合が悪いならお粥作ってあげるから」
「オカユよりオセチがいい」
 恭子がわざとらしく心配そうな顔を作って言うので、修はすねて口を歪ませる。
 恭子は笑って修の頭を撫でた。
「じゃあ用意するから、すぐ来なさいよ」
 恭子が部屋を出て行くと、修はベッドを降りて服を着替えた。

 正月とは言え、服装は普段とさほど変わらない。
 ただ、最近恭子が買ってきてくれたブルーのセーターに初めて袖を通した。
 それだけで少し、新年の気分に浸れる。
 キッチンに行くと、テーブルの上には三段の重箱が広げて並べてある。
「美味しそう。しかも高そう。予約とかしてたの?」
「うん、一応ね」
「へえ、そういうのする人だったんだ、恭子さんって。ちょっと意外」
「あんたが帰らなそうだからじゃない。修って毎年こういうの食べてたんでしょ?」
「でも、こんなに御馳走は僕も初めてだよ。恭子さんは食べた事ないの?おせち」
「ないことはないけど、随分昔の話ね。でも、確かに凄く豪華ね、これ」
「恭子さんって、本当はいくつなの?」
「やーね、そんなこと聞かないの」
「だって、22才じゃないんでしょう?」
「女の年齢は見た目で決まるのよ。実際22才でも32才に見えればその人は32才。実際32才でも22才に見えればその人は22才なの。これが世の中の常識よ。覚えときなさい」
「嘘だよー」
 修は笑った。
「まったくの真実じゃない。はい。じゃあ、いただきまーす」
 恭子はさっさと食べ始める。
 遅れて修も料理に手を付ける。
「修は何が一番好き?」
「黒豆」
 恭子は一瞬、箸を休めた。
「なによ、普段でも食べられるじゃないのよ」
「へへ。でも嬉しい」
「少しは元気になった?」
「うん」
「じゃあ明日、家に帰ってあげなさいね」
 修は恭子を見る。
「帰りたくないよ……」
「一日くらいいいじゃない。あんた、大事に育ててもらったんでしょう?」
「そうだけど」
「心配してるわよ」
「そうかな」
「あたりまえじゃない。1時間でもいいから顔見せてきなさいよ」
 恭子が強く言うので、修は気が進まないものの、実家に帰る事に決めた。
 その代わりに、修は少し甘えた声を出した。
「でも、風邪はひいてるんだよ」
「熱ないじゃない」
「鼻がぐずぐずいってるでしょ」
「今日おとなしくしてれば治るわよ」
「じゃあ、看病してね」
「甘ったれ」
 恭子は微笑んだ。


 修は昼を過ぎてマンションを出た。
 家では父親が一人で雑煮を食べながら駅伝の生中継をTVで見ているところだった。
 修は「おめでとう」と一言いって、その気恥ずかしさをかき消すように、すぐに違う話を始めた。

 同じように走っているだけの映像なのに、何が面白いの?と聞く。
 父親は、淡々とした中に熱いバトルが繰り広げられてるのさ、と、少し芝居がかった口調で答えた。
「まあ、子供には判らんだろうさ。水面下の戦いがぱっと表に現れた時の感動は」
「判んないよ」
「まあ、それで、ちゃんと食べてるのか?」
「うん」
「学校は?」
「行ってるよ。僕のクラスは面白い人たちが多くてラッキーだったよ。僕、一番子供だからみんな可愛がってくれるし」
「そうか。良かったな」
「うん」
「ルームメイトにはちゃんと家賃を払ってるか?」
「うん。でもお金持ちだから要らないって言うんだ」
「駄目だぞ。それでもちゃんと払わないと」
「うん。払ってるよ」
「そうか。よし」
 修は学校の先輩の家に居候させてもらっていると、嘘をついていた。
 もちろんそれが女性であるとは言っていない。
 男だとも言わなかったが、その辺りを深く追求されないのをいい事に上手くごまかしていた。
 もし女だと判れば、多分帰って来いと言うだろう。
 父は真面目で、融通の利く方ではなかった。

 修は夕方に父親の手作りの雑煮を食べると、たまっていた茶碗を洗ってやった。
 それからあまり時間をおかずに家を出た。

 修は、恭子の買ってきたおせち料理の一部をケースに入れて、手土産に持ってきていたので、そのお返しに父親から餅を持たされた。
 恭子は餅までは買ってきていないようだったので、修は喜んでそれを持って帰る。

 恭子が言った通り、父親は修が顔を見せたのを喜んでいるようではあったが、何日か泊まるとなると、お互い接し方に戸惑うのではないだろうかという雰囲気もあった。
 しばらく離れて生活したせいで、余計に父子の間の溝は深くなったのかもしれない。
 溝というのは言い過ぎだろうか。

 
 マンションに帰ると、恭子は部屋にいなかった。
 自分で鍵を開けて中に入り、各部屋を見て回るが、何処にもいない。
 修は「ちぇっ」と言って、仕方なくTVをつける。
 特に面白い番組がないので、ニュースばかりのチャンネルに替えた。

 そのうち腹が空いてきたので、修は二人で食べるつもりだった餅をトースターで焼いて一人で食べる。
 それでも恭子は帰ってこない。
 9時を過ぎると、修は眠くなってきて、ソファーでうとうとし始めた。
 電話の着信音で目を覚ましたのは、ちょうど10時頃だった。
 修は飛び起きて、電話に出る。
「修?」
「うん。どこに行ってるの、恭子さん」
「下」
「へ?」
 恭子の声がいつもと違う気がした。
 少し疲れているような感じだった。

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