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「 妖怪 」第8話

 修は恭子のベッドでまどろんでいた。
 このマンションの部屋は何も変わってはいない。
 ただ恭子がいないだけだ。

 早く帰ってきてよ。
 またお酒でも飲んでるの?

 こうやって恭子の匂いに包まれていれば、少なくとも恭子の夢を見ることは出来た。

 このままここで眠り続けようか。
 僕の体が腐ってしまうまで。

 布団を抱きしめて寝返りを打ったところで、修の耳に物音が聞こえた。
 ドアを開ける音のようだった。
 修はベッドから飛び出て音のした方へ走ったが、廊下で鉢合わせたのは恭子ではなかった。
 見ず知らずの男だ。
 男は驚いて一歩後退った。
「誰?おじさん」
 修も驚きはしたが、それほど表情には出なかった。
 恭子がいなくなってしまった事で、全ての感情が鈍っている。
 男は、修の頭の上から爪先までを、珍しいものでも見るようにじっくりと眺めた。
「君こそ……。君は、男の子だね?」
「そうだよ」
「君は、恭子とここに住んでいたのかい?」
「……うん」
 恭子?
 どうして呼び捨てなんだよ。
「おじさん、誰なの?」
「誰って、この部屋のオーナーだよ」
「オーナー?……そうか。そうだよね。恭子さんが自分で借りられる訳ないものね。おじさん、恭子さんのお父さん?」
 男は急に眉をひそめた。
 怒っている顔ではなく、ショックを受けたような情けない表情だった。
 男はとりあえず座ろうと言って、修をリビングに促がした。

 男は名を滝沢といった。
 滝沢はまず、恭子の事情を知っているかを修に確かめた。
 そして自分は知っていると付け加える。
 修は自分と恭子の関係をかいつまんで説明する。
 事細かなことは言わず、自分の素性も話さなかった。
 修の話を聞きながら、滝沢は二、三度頷いた。
「そうか。恭子はそのまま、その仲間と行ってしまったのか」
「僕、帰ってくるの待ってたんだ。でも、僕、もうここにいちゃいけないんですね?」
「ああ、そうだね。つまり、君には悪いが、もう恭子は戻ってこないよ。そんな口ぶりだった」
「え?恭子さんに会ったんですか?」
「電話だよ。会ってはいない。部屋を引き払うから、後は頼むとね。残念だが君の事は聞いていなかった。彼女の私生活には関与しないと約束していたからね」
「そう。僕のことは何も……。恭子さんは、元気そうでしたか?」
 修が目に見えて落胆したので、滝沢は気の毒そうに修を見ていた。
「ああ、元気そうだったよ」
「それなら、いいです」
 生きてた。
 あいつが助けて、生きてるんだ。
 良かった。
「それで、その、この部屋は処分することにしたんだ。君、住むところはあるのかい?」
「はい。実家に帰ります」
「そう。それがいい。まあ、今日出て行けとは言わないから。そうだね、1週間以内に君の荷物を片付けてもらえれば助かるよ」
「僕の荷物なんて、洋服だけですから」
「そうかい」
「すぐ出て行きます。あの、聞いていいですか?」
「なんだい?」
「おじ……、滝沢さんは、恭子さんとどういう間柄なんですか?」
「ああ」
 滝沢はふと、淋しげな笑みをもらした。
 修から目をそらし、窓の方に目をやる。
 日当たりのいい部屋だった。
 日の光を受けたレースのカーテンが、ゆっくりと風にゆられている。
「恭子は、私の、昔の恋人だよ」
 修はすぐには言葉が出てこなかった。
 まずは、「何言ってんだろう、この人」と、しか思えなかった。
 それでも少し、考えてみる。
 恭子さんの恋人?
 まあ、考えられない事はないけど……。
 おじさんが好きだったのかな……。
「昔って、いつの事ですか?」
「そうだな、もう、20年にもなるかな」
「……はっ?」
「ん?どうしたんだい」
 修に目を戻す。
「た、滝沢さんって、いくつですか?」
「私かい」
 滝沢はハハハと声に出して笑った。
「私は46になったよ」
「……46…。あの、恭子さんって、いくつなんですか?」
「ああ」
 滝沢は苦笑いをする。
「そういう事か。さあ、実は私も知らないんだ。今から2年くらい前にひょっこり私の前に現れてね。驚いたよ、確かに私もね。昔とちっとも変わらず綺麗だった」
「20年前から、変わってない?」
「ああ。そうショックを受けることはないよ。彼女の身の上を知っているんだろう」
「それはそうですけど」
 32才でもないじゃないか。だって、20年前だったら12才だもん。
「彼女に年齢なんか関係ないよ。彼女は変わらない。それだけだ。それゆえの苦労もあるんだろうが、それは私なんかには計り知れない事だからね」
 修は軽く頭を振って、考える事をやめた。
「そうですね。あの、本当に恭子さんと恋人だったんですか?」
「私はそう思っていたよ」
「2年前に現れたってことは、その間一緒にいなかったんですよね。どうして別れたんですか」
「さあ、それは言う必要はないだろう。私と彼女の問題だし、私と彼女の思い出なんだから」
 修は唇を噛みしめた。
 このおじさんも、恭子さんにキスされたんだ。
 僕なんかよりももっと沢山、恭子さんを触ったんだ。
 このおじさんが。
「恭子さんは、どうしてあなたの前に現れたんですか」
「部屋を借りたいと言って、私に頼みにきたんだ。彼女では借りられないからね。何件か引越したけど、ここは気に入ったみたいで、私が購入したんだよ」
「滝沢さん、何のお仕事されてるんですか」
「え?」
「だって、お金持ちなんですね。そんな簡単に、恭子さんの為にマンション買うなんて」
 滝沢は肩をすくめる。
「そんなに簡単ではないけれどね。彼女も長く住むつもりのようだったから。でも、早かったな……。私の仕事は言わないでおくよ。私には家族がいるからね。変な所でこじれたりするのは困るんだ。私も君のことは聞かない。お互いにそれでいいだろう?私のことはもしかしたら、君がその気になれば調べられない事はないだろうが、出来ればそれはしないで欲しい。これはお願いだ。いいかい?」
「判りました。あの、一つだけ。恭子さんに再会して、また恋人になったんですか」
「まさか。そんな心配ならいらないよ。私は家族を愛している。彼女は、もう思い出の中の人だよ」
「そんな人のために、ここまで面倒見るなんて、僕は、信じられない」
「彼女は特別さ。それは君にも判る筈だよ」
「……。そうですね」
 修は力なく頷いた。
 それを見届け、滝沢は立ち上がる。
「じゃあ、1週間後に業者に片付けを頼むから、それまでにお願いするよ。鍵はポストの中に入れておいてくれたらいいから」
「はい」
「気を落とすな」
 最後に滝沢はそう言って、部屋を出て行った。
 滝沢を見送ると、修は再び恭子の部屋に戻った。
 ベッドに潜り込む。
 恭子さん。
 恭子さん。
 恭子さん……。


 それから三日後、修は田崎に電話をした。
 田崎は修のバイト先の近くの駅を指定してきた。
 修が来ると、近くの珈琲店に入る。
 田崎はやはり暗い色のスーツを着ていた。
 高慢な目つきも変わっていなかった。
「俺の言った通りだったな」
 確かにその通りなので、修は黙っていた。
 コーヒーを飲む。
 安い値段に見合った味がした。
「そんなにあの女に会いたいか」
「違うよ」
 田崎はカウンターに頬杖をついた。
「じゃあ、何だ」
「恭子さんは、きっとランディーと一緒にいる。あの怪我で無事だったんなら、僕はもう、それだけでいい」
「へえ」
 意外だというような声を出した。
「じゃあ、お前のメリットは何だ?」
「母さんを探したい」
 そして鼻で笑う。
「家出でもしたか」
「そうだよ。母さんは、僕を生んですぐに家を出たんだ。父さんは何も教えてくれないから。もしかしたら、あんたと一緒にいれば、出会えるチャンスがあるかもしれない。だから手伝う。でも、僕はむやみに妖怪を殺すことはしないよ。あんたがどうして妖怪を憎んでるのか知らないけど、僕はそうじゃないから」
 田崎はじっと修を見つめた。
 そして言う。
「お前、自分の正体が判らないのか」
「判らない。あんたは僕の気持ちが判らないでしょう?」
 修は首の後ろから髪を前にかき寄せた。
 首のアザを田崎の方へ向ける。
 そして、すぐに元に戻した。
「たまにこれが疼くんだ。もしかしたら、ここが突然割れて何かが出てくるかもしれないし、羽が生えてくるかもしれないし、角が生えてくるかもしれない。そんな風にいつもビクビクしてる僕の気持ちなんか判らないでしょう。おまけに得体の知れない男から突然殺されるかもしれないなんてさ。僕は妖怪を殺さないよ。困ってる人がいるなら、妖怪を説得すればいいんだ」
「説得できるものならやってみな」
 田崎は修から目をそらし、興味なさげにそう言った。
 そして、ついでの様に付け加える。
「俺の両親は妖怪に喰い殺された。俺の事情はそれだけだ。お前ほど面倒じゃないって訳だな」
 修は驚いて田崎を見た。
 田崎はしかし窓の外の人通りをぼんやり眺めているだけだった。
 修は田崎の身の上を詳しく聞こうと思ったが、その涼しい横顔をしばらく見て、思い直した。

 両親が妖怪に喰われた。
 それだけの事さ。

 修は初めに思ったこととは違うセリフを口にする。
「でも、手伝うには条件があるよ」
「条件?」
 田崎はこちらを振り向く。
「あんたの家に僕を住まわせる事」
「何だと?」
「恭子さんの部屋にはもう住めないもの。家にも帰る気はしない。だから、あんたの家に泊めてよ。あんたにとってもその方がいい筈だよ。いつからこんな仕事やってるのか知らないけど、今まで返り討ちにあわなかったのが不思議なくらいじゃない。このままじゃ、近いうちにあんたが妖怪から退治される羽目になるよ。僕と一緒にいれば、少しは危険も減るでしょう」
「なるほどな。お前が俺に肩入れしてる間は、確かに安全だな」
「でしょう」
 田崎は首を下にさげて頷くのではなく、逆に、上に軽く顎をしゃくって、横柄に了解をした。

 本当、こいつ感じ悪い。

 修はそう思いながら、微笑んだ。

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