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「 妖怪 」第4話

「マンションの入口の近くにいるの。あのね……、バスタオル、1枚でいいから、持ってきてくれない」
「何、どういうこと?」
「とにかく、来て。後で話すから」
 それだけで電話は切れた。
 修はまだぼやけている頭を掻き、とりあえず急いでタンスからバスタオルを取り出した。
 それを抱えて部屋を出る。

 恭子はマンションの駐車場の、少し陰になった花壇のふちに腰かけていた。
 力なく修を見上げる。
 修はその様子がただ事ではないとすぐに判った。
 血の匂いがした。
「どうしたの」
「大きな声出さないようにね。話は部屋でするから」
 恭子の左手の先からは血が滴り落ちていて、花壇の土にそれが滲んでいる。
 バスタオルを受け取ると、恭子は左手の先から腕に巻きつけた。
 修は立とうとする恭子を支えて歩いた。

 部屋に戻り恭子をベッドに寝かせ、修はタオルや包帯、消毒液を持ってくる。
 恭子の着ていたジャケットには左の肩と肘の中間辺りに穴が開いている。
 服を脱がせると、さらに血がながれてきた。
「大丈夫よ、見た目ほどたいした事ないの。とりあえず止血を、」
「黙ってて、判ってるから」
 斬られたというよりは刺されたといった感じの深い傷だ。
 修は包帯をきつく巻いてから、血にまみれた腕を拭いてやった。
 幸い傷は一箇所だった。
「病院行かなくていいの」
「ええ。平気。今だって疼いてる程度なのよ。お喋りも大丈夫」
「本当に?」
「ええ。血もすぐに止まるわ。並みの治癒力じゃないんだから」
 時折顔をしかめる恭子を見ると、それは強がりのようにも聞こえたが、多分本当のことだろう。
 修にも怪我がすぐに治ってしまうという経験は何度もあった。
 ただ、こんなに深い傷は見るのも初めてだ。
「じゃあ、何があったか話してくれる?」
 恭子は少しためらうような表情を見せたが、ゆっくり言った。
「相手は人間よ。若い男だった」
「妖怪じゃないの?」
「違う。でも、私が普通でない事は知っていたみたい。どうしてだか判らないけど……後で少し考えてみるわ。ねえ、少し眠っていい?傷は大丈夫だけど、疲れちゃった。寝た方が早く治るし」
「うん、判った。ゴメンね」
「いいのよ、ありがとう。あと、この部屋に来るまでに、血が落ちなかったか見てきてくれる?マンション内で血痕が見つかると何かと面倒だから」
「判った。外はどうする?」
「それはいいわ。道端に血痕があったって、誰も気にしやしないわ」
「判った。じゃあ見てくるから、寝てていいよ」
 タオルを持って部屋を出たが、建物の中に血痕はなかった。

 修が戻ってくると、恭子はすやすやと眠っていた。
 恭子のベッドはキングサイズだったので二人でも余裕で寝ることができる。
 修は恭子を起こさないように、そっと布団の中に入り、横になった。
 恭子の髪をそっと触ってみる。
 柔らかな頬も指先で撫でてみた。
 それでも恭子は反応しなかった。
 修は恭子の唇に、ゆっくりと自分の唇を重ねる。
 修は隣に寄り添って、その寝顔を少しのあいだ見ているだけのつもりだった。
 が、そのうちに修も、そこで眠ってしまった。


 目を覚ますと、恭子はいなかった。
 修は恐る恐る、物音のするキッチンへ向かう。
 添い寝をしていた事を怒っているかもしれない。

「おはよう」
 シンクで手を洗っている。
 背中を向けたまま、恭子が先にそう言った。
 タオルで手を拭く。
「おはよう。腕はどう?」
「あんたが看病してくれたから、すっかり治ったわ」
 恭子は、そばに来た修の頬にキスをした。
 怒ってはいないようだ。
 腕の包帯は綺麗に巻きなおしてあったが、恭子はそれをほどき始めた。
「駄目だよ、しばらくそっとしておかないと」
「いいのよ」
 すっかりほどいて、傷を修に見せる。
 白い腕にあった傷口は、赤黒いかさぶたで覆われていた。
 痛々しくはあったが、縫合もせずにここまで早く治るとは思っていなかった。
「ほとんど治ったみたい」
「本当だ。凄いね、恭子さんって」
「バカね。あんたのせいよ」
「僕?」
 修はきょとんと、恭子を見つめる。
「私だって驚いてるの。早くても二、三日はかかると思ってたのに。多分あんたが、頼んでもないのに添い寝してくれてたからよ」
 修は目線を天井に泳がせた。
「ねえ、修」
「ご、ごめん。つい眠くって」
「違う。怒ってるんじゃないの。ねえ、あんた、家に帰りなさい」
「えっ?なに言ってるの。言われた通りちゃんと昨日、行ってきたじゃないか」
「違うの。しばらく私から離れてて欲しいの」
「どういうこと?やっぱり怒ってるんじゃ、」
「あのね、昨日襲ってきた男。誰だか判らないけど、私を殺す気だったみたいなの。見ての通り反撃どころか避けるのが精一杯だった。上手くまいて帰ってきたつもりだけど、いつこの部屋を見つけ出されるか判らない。奴の目的は判らないけど、あんたを巻き込みたくないの」
「何それ。だったら余計そばにいるよ。大体どうして狙われるの?いったい昨日、何処に行ってたのさ?」
「ちょっと出かけてただけよ」
「何処に?」
「ちょっと、そこまで」
「そんなんじゃ駄目だよ。ちゃんと言ってよ」
「言いたくない。とにかくあんたは家に帰ってなさい」
「嫌だ。絶対に嫌だ。僕のせいで傷の治りが早いってんなら、絶対僕はそばにいた方がいいじゃないか。もしかしたら力だって強くなるかもしれない。そうすればそんな男、二人でやっつけられるじゃない」
 恭子はゆっくりと、首を左右に振った。
「あんたは何も判っちゃいない」
「判らないさ」
「よく考えないからよ」
「なんだよ」
「やっつけるって何?」
 修は恭子が何を言いたいのか、まだ判らなかった。
「私は化け物よ。見た目は日本人みたいだけど、戸籍だってないわ。この世間に存在してる筈のない生き物なの。でも、あんたは違う。あんたはこれからも普通の人として暮らすつもりなんでしょう。あんたと私の違いはそこよ。あの男は普通の人間だった。私は自分を守るためなら、あの男を殺しもするわ。判る?下手すれば殺人よ。あんたには出来ない。でも、私には出来るの」
 殺人……。
 恭子さんが?
 人を殺した事が、今までにあるの?
「僕……。僕、恭子さんのためなら、」
「バカ言わないで。私、あんたにそんな事させる為に連れてきたんじゃないわ。あんたはまともに生きなさい」
「でも、僕は恭子さんのそばにいる」
「巻き込みたくないし、あんたの命も狙われるかもしれないわ」
「人殺しはしないけど、狙われる分には文句ないでしょ?」
「修……」
「そばにいさせてよ。お願いだから。僕、恭子さんが好きだよ。離れたくない」
 恭子は溜め息をついて、髪をかきあげる。
「参ったなあ」
 恭子は腰に手をあて、修を睨んだ。
「譲らないからね」
 修はそう言って、恭子を見返す。
「あんたねえ、そんなこと言ったら、キスしちゃうわよ」
 意外なセリフで、修は面食らう。
 しかし、やっと言い返した。
「いいよ。したらいいじゃないか」
 恭子はぷっと吹き出した。

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