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「 妖怪 」第7話

 修は恭子の傍に膝を付く。
「恭子さん!」
「……しゅ、う」
 恭子は力ない目で修を見つめた。
 傷口を押さえている恭子の手に、修は自分の手を重ねる。
 生ぬるい血が指の隙間から流れてくる。
「ごめん、恭子さん……。僕、恭子さんが人を殺すなんて、耐えられなかった。だけど、こんな、ごめん、許して」
「修……」
「僕、何てことしちゃったんだろう」
 修は、恭子が持ち上げたもう片方の手も、強く握り返した。
「ごめん、痛いよね。許して、恭子さん」
 恭子の手を頬に押し当てた。
 その手はいつになくひんやりしている。
 血のぬるさを感じた為に余計にそう思えたのかも知れない。
 恭子は時々目を閉じ、開いては修を見つめた。
 哀しそうに。

 恭子さん、死なないで。
 ごめん。
 そんな目で見ないで……。

 修は突然肩をつかまれた。
 田崎が起き上がってきたのだ。
 見つけ出した武器を手にしていた。
 修は引きずられるように立たされて、頬を殴られる。
 口の中に血の味が広がった。
 修は殴り返そうとしたが、逆にもう一度殴られ、地面に倒れた。

 田崎は恭子を振り返り、そちらに向かう。
 修はかろうじて田崎のズボンの裾を握り締めた。
 しかし田崎にその腕を蹴り上げられ、手がはずれる。
 蹴った田崎の方も、体のバランスを取るために、その場にしばらく立ち止まらねばならなかった。
 その時。
 上空で鳥の羽ばたく音が聞こえた。
 音の方へ目をやると、カラスが恭子の傍らに舞い降りた。

 修は視界がぶれたような気がして、軽く首を横に振った。
 殴られたせいで目がどうにかなってしまったと思ったのだ。
 しかし、気のせいではなかった。
 カラスの体の輪郭が曖昧になって、黒い霧がその場に広がった。
 修も田崎も、その様子をじっと見ていることしか出来なかった。
 恭子の体の半分が霧に包まれた。
 黒い霧はその面積を増し、縦に長くなる。
 恭子の体が霧に包まれたまま宙に浮かんだ。
 恭子はそっと目を開け、霧を見つめる。
 霧は田崎の背よりも少し大きく形を変えると、輪郭を徐々に確かにしていく。

 黒い霧は、黒いマントのような服を身に付けた、黒い髪の、黒い瞳を持った男に姿を変えた。
「化け物め」
 田崎が呟く。
 修が四つ這いになりながら言った。
「ランディーなの?」
「気安く呼ぶな。役立たずが」
 ランディーは、抱きかかえている恭子に視線を落とした。
「俺と来い、恭子」
 恭子は何も言わなかったが、修には微笑んだように見えた。
 立ち上がり、修は言う。
「駄目だよ!」
「小僧は黙ってろ。おい、お前」
 ランディーは田崎に顔を向ける。
「この事を許す気はないが、同情できない訳でもない。だから見逃してやるよ。ただし、二度と恭子に近付くな。この先、偶然どこかで会っても、手を出すな。そうでなければ俺がお前を殺す」
 ランディーは一層強く、恭子を抱きしめた。
 修は焦った。
「待ってよ。どういうつもりだよ!恭子さんを連れて行くなんて許さない!」
「お前は守れなかったじゃないか」
 ランディーはふっと、見下したように鼻で笑った。
 そして一歩後ろに下がり、そして瞬時に空に跳び上がった。
 次に見た時は、二人は木の枝の上だった。
「恭子さん!」
 修は駆け寄ろうとしたが、二人の姿はすぐに夕闇にまぎれ、消えてしまった。
 修は茫然とその方を見て立ち尽くした。
 いつの間にか日は落ち、辺りは薄暗くなっていた。

 嘘でしょう。
 こんなのって。

 修は急に襟の後ろをつかまれ、そのまま引き倒された。
 地面に叩きつけられる。
 もう、体中で何処が痛いのか判らないなと思った。
 なんだい、この男。
 ウンザリだよ、さっきから。
 暴力的で、手に負えないや。
 地面に倒れた修に、田崎が馬乗りになる。
 右手に持ったアイスピックを振り上げ、言った。
「お前も化け物だって言ったな」
「そうだよ」
 喋ると口の中がヒリヒリした。
 田崎は左手で鎖骨の辺りを押さえつける。
 修は抵抗できなかった。
 ただ、田崎の目を見ていた。
 しかし、田崎がなかなかアイスピックを振り下ろそうとしないので、言う。
「殺せば?」
「いい度胸だな。命乞いをしないのか」
「もう意味ないよ。恭子さん行っちゃったもの」
 修は声に出してそう言うと、無性に恭子の話を誰かにしたくなった。
 自分以外、ここにいるのは田崎だけだ。
 修は言った。
「僕、判ったんだ。僕は妖怪を怖がってる。あんたみたいに憎んじゃいないけど、好きかと聞かれれば、それは判らないよ。でも、僕は、自分に流れている妖怪の血が嫌いだった。だけど、恭子さんはまったく僕とは正反対だった。恭子さんは自分に流れている人間の血が忌々しくて仕方がなかったんだ。だから、こうなる事は初めから決まってたのかもしれない。いつまでも一緒にいられる訳がなかったんだ。それでも、僕は恭子さんが好きだった」
 田崎からは何の反応も返ってこなかった。
「殺せばいいよ。どうせ僕は化け物だよ。父さんには悪いけど、もういいや。もしかしたら、父さんだってその方が気が楽かもしれない。僕を殺せばあんたの気も晴れるんだろう?僕もうじうじしなくてすむしさ」
 田崎は目を細めた。
 そして、反動をつけアイスピックを振り下ろす。
 修の左耳に風を切る音と土を突く音が響いた。
 反射的につむった目を、ゆっくりと開く。
 田崎の右手は、修の顔の左側の地面に振り下ろされていた。
「お前、母親が化け物なんだな?」
 修は目を一度閉じて、肯定の合図とした。
「妖怪の気配を感じられるんだな」
「ああ」
 修は声を出す。
 自分で思ったよりも小さな声が出た。
「妖怪の力を抑制することもできる」
「ああ」
 さっきよりも少し大きく声が出る。
 田崎はそれを聞くと、地面からアイスピックを引き抜いた。
 土で汚れたそれを勝手に修の服で拭う。
 修はうんざりした目つきで田崎を見やった。
「あいつが言った通り、お前を殺すには、俺には部が悪い。こいつは妖怪だといくら主張しても、誰も信じないだろうからな。俺は殺人容疑で捕まる。だから殺すのはやめだ」
 田崎はアイスピックのどこかを触って、その銀色の尖端部分を柄の中に引っ込めた。
 仕込みの武器のようだ。
 それを内ポケットにしまう。
 確かにあのまま服に入れてたら自分に刺さるよね。
 鼻をかすかに鳴らして笑った修に、田崎は言った。
「お前、あの女に会いたいか?」
「え?」
「お前、俺を手伝え。俺には都合のいい相手だ」
「何、言ってんの?」
 田崎は修の怪訝な顔も気にせずに、胸ポケットから今度は名刺を取り出した。
 それを修の目の前にかざす。
 妖怪退治屋 田崎一行、そして電話番号が書いてあった。
「気が向いたら電話しろ」
 田崎はそう言うと名刺を修の胸の上に落とし、やっとその上から身をどけて、立ち上がった。
 修は慌てて両肘をつき、上体を起こす。
「バカじゃないの?何で僕が貴様なんかを手伝うんだよ!」
 田崎は服の乱れを直しながら修を見る。
「よく考えるんだな」
「ふざけるな!」
 田崎は冷たい目で微笑んだ。
「お前は電話してくるよ」
 そう言い残し、田崎は歩いて行ってしまった。
 修はその後ろ姿を強く睨んだ。
「誰がお前なんか……」
 叫んだせいで口が余計に痛くなった。
 口元の血を、手の甲で拭う。
 その手には、凝固し始めた恭子の血が付いていた。

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