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ノンフィクション・ライティング/古民家再生をめぐる「カヤバ珈琲の夏」

 東京の台東区「谷中・千駄木・根津」を中心とした地域を総称して「谷根千」と呼ぶようになって久しく月日が過ぎた。私は生まれも育ちも東京の下町だが、昭和期のこの地域とは随分と様相が変わってきた。地域のキーワードのひとつに「古民家再生」があると思われる。下町エリアは戦後の焼け野原から復興し、高度経済成長期を経て住宅が密集した。昭和期の日本家屋は平屋ないし二階建ての木造一軒家がほとんどであり、アパートも木造長屋がずいぶんと多かった。昭和も後期になると、それらはモルタル一軒家やマンションに姿を変えていった。しかしながら、墨田区の京島地区や、葛飾区内などはいまだに木造建築物が散見される。

 江東区では清澄・白河地区に、ブルーボトルコーヒーの旗艦店が建ち、周辺にはおしゃれな雑貨店やレストランなどが増えた。中でも目立つのが「旧東京市営店舗向住宅」をリノベーションした物件だ。清澄庭園を背に沿って建つ90年超えの長屋であり、昭和3年(1928)に建設された鉄筋コンクリートでできた長屋群だ。現在では、飲食店やギャラリー、ショップなどに再生されている。私もこの中の「Cafe清澄」に入店したが、古さと新しさのコラボ感が心地よく、店内奥の大きな窓からは木々が見えてくつろげる雰囲気も良かった。

 足立区では北千住宿場町通り周辺に、旧日光街道・千住宿の名残ある木造建築物が今も数多くある。代々千住絵馬を作り続けている「吉田屋」や、彰義隊が切りつけた刀跡を今も残す商家「横山家住宅」など見るに飽きない。大橋眼科医院の建物は大正期1917年のもので、設計は東京芸術大学教授で彫刻家の飛田朝次郎氏のデザインだ。元の建物をイメージしつつ近代建築のパーツを再利用して鈴木英夫氏の設計により1982年に再建された。ブリコラージュ的な建築は作り手の熱意と遊び心にあふれている。※2022年に残念ながら解体された

 谷根千地区は関東大震災や第二次世界大戦の東京大空襲の被害が少なかった地域であり、築100年超えの木造家屋や神社仏閣が数多く残る。そのままの老舗の風格たっぷりで営業する千駄木「菊見せんべい総本店」や谷中・佃煮「中野屋」などもあるが、古民家リノベーション物件も多い。木造三階建てで目をひくのが根津にある串揚げ「はん亭 根津本店」は、もともとは明治42年に下駄の爪を商家として二階部分が建てられ、大正6年に三階が増築され、昭和50年代に串揚げ「はん亭」として生まれかわった。平成10年には国の登録無形文化財に指定されている。最近では2021年に重岡俊平主演のドラマ「#家族募集します」の舞台となった「上野桜木あたり」は昭和13年建築の物件をリノベーションした施設で三軒続きの複合施設となっている。「クラフトビールの店」「塩とオリーブオイルの店」「雑貨店」などがある。クラフトビール店に入店したが、まさに民家そのものの雰囲気を直に感じられ、狭い空間をうまく生かした落ち着ける作りだ。トイレも昔ながらの木製の扉を使用している。

 さて、古民家好きの私が今回選んだ物件は「カヤバ珈琲」である。上野駅からは、上野公園より学芸大を抜け、徒歩20分ほどの道のりだ。「旧吉田屋酒店」現在の地域歴史博物館の向かいにある。大正時代、1916年頃に建てられた木造2階建て建築物をリノベーションしたしたのが「カヤバ珈琲」(東京都台東区谷中6-1-29)であり、上野桜木の交差点角にある。リノベーションを手がけたのは建築家の永山祐子氏。もともとのカヤバ珈琲の創業は1938年、先代オーナーである榧場(カヤバ)氏が家族経営してきた喫茶店だったが、2006年に一度、閉店。その後、有志やNPO法人「たいとう歴史都市研究会」によって2008年に再オープンした。このような取り組みは地域全体で広がっているとのことで、2018年には「谷根千まちづくりファンド」が設立され、谷根千エリアに数多く残る歴史的な建造物を保全・再生し、飲食施設や宿泊施設などとして活用する事業がすすめられている。この珈琲店には何度も足を運んでいる。食物・飲物も遜色なくおいしいが、つい入ってしまうほど、とにかく場所がいい。上野から谷根千エリアへの散歩道上では好立地であり、まして寒い冬のホットドリンク物や、暑い夏のかき氷は格別となる。さらに、再来店をうながす最強の武器はやはり雰囲気だ。とにかく落ち着く。店全体の「時間が止まっている」――時計の音だけが聞こえてきそうだ。こういった時間は、近年のセルフサービス形態のカフェでは味わえない違った贅沢さがある。しかしながら、大変な人気店になっており、週末を中心に恒常的なウエイティングがかかる。
建物だが二階建て木造建築が目をひく。言問通り側からは、黄色の看板がチラリと見えなければ立派な日本家屋にしか見えない。1階部分の窓周辺には、レンガの植え込みが目隠しとなっている。二階部分には木製の手すりが窓全体に付き、伝統的な和風住宅で見られる寄棟造の屋根が特徴的であり、梁が表に出ている出桁造り(だしげたづくり)の近年ではめずらしいものだ。地域歴史館向かい側にある入口横には、ひときわ目をひく黄色い大きな看板に「Coffee・あんみつ」の文字と「カヤバ珈琲」とあり、この看板を取り囲む木製の額ぶちには細やかな彫刻細工がなされており、いい味を醸し出している。レンガ花壇の角には真夏に紅い花を咲かせる「ベニゴウカン(紅合歓)がまるでブラシのように変わった紅い花をつける。シンボルツリーとまではいかなが、夏には紅い花が、かなり遠くからも目立つ。

エントランス(出入口)の古めかしいドアは、この店らしく茶色の木製であり、ガラスはめ込みがされたもので年期を感じる。店内に入ると、客動線はシンプルで、1階客席は提供カウンターを右手に直線であり、右折れにて2階へと続く。カウンターに椅子はなく、あくまで接客用となっており、接客動線は同じく客動線上である。店内家具は、喫茶店でよく使用されているような木製の焦げ茶色のテーブル、椅子は茶色の革張りとなっており、店全体のレトロな雰囲気に合わせているように思われる。カウンターを支えるレンガや、古めかしいところどころ色の剥げた床は、あえてそのまま使用していることで雰囲気を失わないようにしている。店内には、コーヒー豆で染めた布が額に入れられ、シンプルに並んで壁にかかっている。レースカーテンごしの自然光が優しく、店内は若干、暗めとなっているが、天井についた暖色電球の照明で十分だ。ガラスも今ではめずらしいデザインガラスで、ガラスそのものに模様が入っている。昭和期には、目隠ししたい場所に使用したり、一部のみ、そのようなガラスを普通のガラスと組み合わせたガラス戸をよく見かけたが、今となってはほとんどない。すりガラスも同様である。二階はもともと住居だったそうだが、現在は座敷席となっており、畳敷きの部屋をとおしで使用できるように、ふすまは外してあり、木製のローテーブルと座布団が並べられている。二階に通されたこともあったが、以外に落ち着く。あんみつなどの和物デザートを食べる時には雰囲気も合っている。古く使い込まれた柱と白壁、デザインガラスの木製ガラス戸――下部は格子の桟がそのまま生かされており古民家リノベーションの手本のようだ。

 地元で先般、散歩の際に民家をリノベーションしたゲストハウスを見かけた。古い民家を生かした建物に、入口引き戸の上には「紺色の暖簾」が掛けられ、「レコードと宿」とある。近くにはスカイツリーもあるのでインバウンド需要も狙ったものかと思われる。まだまだ、東京下町には昭和感たっぷりの良い古民家が多数実在するのだが、谷根千エリアのような地域としての「町づくり」をして集客を高めないと単独ではなかなか来店機会を上げることが難しい。古民家再生のキーワードは「地域ぐるみの町づくり」が重要だ。

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