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むぎの父

私の父について文章化してみたい。
父は着物の下に着る肌襦袢を作る工場で生まれた3兄弟の長男。
いわゆるボンボンだな。
好きに生きて大学は東京に来ている。

適当に大学生活を終え
私生活はキリスト教にはまっていた。そこで母と出会う。
父はお調子者であったのは間違いない、ワルツが踊れるのが自慢だったらしい。母は父に恋をしていた。本人(父)曰く高値の花だったらしい。
母はファンの一部だと。

二人が結婚をして5人の子供に恵まれた。
5人産むということは資産があったのだろう。

が!時代は変わるわけです。
着物なんて普段着で着ない時代に入り
ちょうどそのころボンボンパート2の次男の事業失敗が重なり
大きな工場は閉店、家は破産した。

社長として生きてきた父は、東京に出稼ぎにでた。
この時期父40代 今の私くらいだろうか
考え深い(プライドも出てくるころだろう40代は)。
この時期長女が大学受験、姉は頭がよかった。勉強を頑張りすべての大学に受かった。が、姉を大学に行かせるお金はなかった。
はじめて足をつきあわせ、大学に行かすことができません、申し訳ございませんと父と母で頭を下げた。だけではなく、姉は奉公に出された。
兄もそのころ自衛隊に入り仕送りする日々だったらしい。
私はそのころ小学生だ、2つ姉もまだ中学生、もう一人の兄も高校生、
育ち盛りを持ちながらの倒産は想像を絶する。

父はポジティブな人間だった。
そんな中でも前向きな言葉を言い続けた。
踏ん張る意地もあった、自分の持ち物を保ちながら新しい仕事に挑む精神は孤独との戦いだったはずだ。
現場で踏ん張り社長に頼み込み社宅に家族を呼んだ。
野心家であり元社長な父は勤めていた内装会社を辞めて自分で独立した。
数年やっていた記憶で、いつの間にか電気の管理する大きな会社に転職していた。
のちに聞いたときに
夜間の工事現場で穴を掘っていた時に
大学時代の友達とばったり遭遇した。友達は大きな会社の役員、、、父はヘルメットをつけて泥だらけで穴を掘っている。
「おい!なぜ君は穴をほっているんだ!」
「なぜといっても穴を掘るのが私の仕事だ」
父とその友達は大学時代に
いつか電気の時代がくるぞと大学時代に電気の勉強をして難関な資格を二人でとっていた。友達は田舎で父が社長をしているものとばかりと思っていた。すぐに波乱万丈な事情を聴いてくださり救ってくれた。

父はとにかくポジティブな人間だ。
電気の会社の営業はすぐにトップになったらしい。
定年までやり、またお客様を引き抜き電気の会社を起業した。
父が初めて年収1000万クラスに入門した。
60歳から彼の人生の謳歌が始まる
趣味の話し方教室も通い、社長朝の会という会に入り
飲み会も100%参加男。
話の面白い男でもあったので飲み会の数は多かった。

彼の謳歌後すぐに試練がくる
脳梗塞だ
ただ父はポジティブ
脳梗塞1度目ではへこたれず治った後も飲んでいた、
はい、案の定68歳で2度目の脳梗塞をした。
酒だけはあきらめ飲み会参加はやめなかった。
人が大好きで人の集まるところに必ず行き
80代になっても足が動かなくても行き続けた。
60歳からはとにかく楽しかっただろう。

父はコロナで亡くなった。

コロナになって半月。
コロナで費用がかからなかったのは父の最後の自慢だろう。
笑えるのは父の財産が
2万だった。本当に使い切りお見事としかいいようがない。
さて子ども5人で遺産相続話し合いましょう
2万円のふりわけをw

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