オルタナティブな教育

 なんとか公立学校教職員全員が持てる強みを発揮して、教育を高めていく有機体になるために必要なことを1つでもいいので言語化したいと考えています。それは理想の学校を1個作ることでなく、公教育を理想の状態に近づけるために思考です。おまえには無理だろと自分でも思います。できなくても別に構わない。でもその努力をしてみよう。noteはそのための書き散らしです。お付き合いいただければ幸いです。

 さて本文。
 オルタナティブという言葉で括られる学校の種類があります。
 これも人によってニュアンスの違う言葉の一つだと思います。
something newとは違う「新しさ」だと思ってもらえるとさほど間違いではないかと思います。基本的には、研究者や実践家が後ろ楯になってることが多いです。デューイのシカゴ実験学校もオルタナティブに入ってる文章を見たことがあります。たしか実験なのですぐ閉じたと記憶していますが。この100年以上前の新教育運動がことの起こりとして設定されることは妥当だと思います。 
 
 ウィキペディアでは「代替」の意味なんだそうですね。少しニュアンスが違う気もしますし、この言い方は失礼だと怒る人もいるかもしれません。

 おそらくこれからたくさんできてくる学びの多様化学校、今までの不登校特例校はオルタナティブな学校の括りになるものが多くなるのであろうと思います。

 既存の教育を批判するために、オルタナティブな学校のスタイルを説明する人が多いので、そもそもの定義がよくわからなくなってしまいます。あと新自由主義という言葉が流行ったせいもあるのでしょうか?自由主義教育や自由保育なども調べにくくなり、今のネット情報を見ていても私自身混乱しています。
 ネット情報では、おそらく誰にもわかんなくなってるのではないかと思います。昔はもうちょっと整理整頓されていたような気がするのですが、、

 ちなみに教育本のトンデモ話で書きましたが、教育本には明らかに使用法を間違っている言語化があります。だから正しく誰にでも理解可能な言語化が重要だと考えるにいたりました。。「かくれたカリキュラム」(The Hidden Curriculum)という言葉は特に私の専門なので語っても許されるとおもいますが、トンデモ本は書籍名からしてヤバいものや煽り文句自体が学術的に誤用の範疇を超えているものをよく見かけます。ジャクソンさん(Philip W Jackson)に謝って欲しい。それらの書籍は大学や文科省に関わっている人間が執筆者として名を連ね、しかもかなり大手の出版社なので始末に追えない。これよりレベルの低い書き捨てごめんのマニュアル本が世にあふれていることは言わずもがなだと思います。

 なので、私なりに30年近くウォッチしてきたオルタナティブな教育について私の独断で書いてみます。それでもネットやトンデモ本よりかなりマシなモノになるとは思います。

 最初に私がオルタナティブな教育に触れたのは大学時代なので、1980年台最も後半あたりだと思います。このネットもアマゾンも何もない時代に改革教育学という範疇で卒業論文を書こうと目論んでしました。目的の書籍を手に入れることすら困難だった時代です。

 孫泰蔵さんの「冒険の書」はまだ読んでいないのですが、おそらく似たような論理構成の学校批判と教育改革がすでにこの頃、既存の詰め込み学校教育からの脱却を目指して花開いていました。少なくとも教育学部では、、このとき論理的支柱としてよく使われたのが「ポストモダン」の思想家イヴァン・イリッチとミシェル・フーコーでした。少なくとも私は卒論にこの二人を使いました。今でも使えるのが逆に意外に感じます。なぜならポストモダンは、暴露するだけ暴露して後の尻拭いをしない欧米の思考系譜を基盤にした思想だからです。コミュニケーション主体の哲学や新しい実存主義(ここにも「新しい」が出てきます。重なると面倒だから「新しい」の別の言い方が必要になり、オルタナティブが使われることがいろんな学問であるんです。私が代替という訳に違和感がある理由です。)にボロクソにこき下ろされ、文化的背景上日本人には理解されにくい側面を持っているために今の日本ではもう通用しないのかなと長いこと考えていました。

 そのため、この文章を書きながらこの時分の教育改革は今の世の中的に抹殺されているのかと錯覚しましたが、そのときの私がフィールドワーク(この手法が社会学的に日本に普及したのもこの頃です)の対象にしたのが東京シューレやきのくに子どもの村小学校だったので、まだこれらが残り発展している現状から抹殺されてないと思い直すことができました。この時にはフィールドワークの理論補完のためにシュタイナー、ニイル、フレネの書籍を探しまくっては絶版で弾き返された記憶があります。そのつながりで忘れ難いのは霜田静志(ニイルの書籍の訳を多く手がける教育学者)の「叱らぬ教育の実践」ですね。今ならアマゾンで買えることにも驚きましたが、教師になる前の私は教師がこんなことしちゃダメだろと思うようなことが書かれていて衝撃を受けた記憶があります。今ならここにかかれている実践はコンプラ違反で保護者にぼろくそ言われると思います。叱らないようにするということは、ここまでの覚悟が必要かということも同時に学んだんですがね。

 異論もあるでしょうが、今の風越学園や瀬戸SOLAN、N高もしくは個別最適化と親和性の高さから公立学校カリキュラムに浸食しているイエナプランなどはこれらの系譜に属する亜流のようなものだと思っています。特にイエナプランなどは当時日本では風前の灯だったように記憶しています。オランダの特殊な国の事情と結びついているだけで他のオルタナティブな教育から見て特段優れているところがあるわけではないと思います。個人的な感想です。ただ今の勢いはすごいですね。リヒテルズさんすいません。

 のちに2000年代、保育研究に片足を突っ込んでいた時には、ここにモンテッソーリ、フレネ、レッジョエミリアが加わってきます。これが日本の自由保育ブームにつながっていくのですが、今は下火のように感じます。これは単純に日本の小学校の学級崩壊ブーム(ブームとは言わないか。実はこの学級崩壊1998NHKスペシャル型は今もよくある状態です。現在は自分のクラスや学校が学級崩壊であると認める担任と管理職はいないと思いますが、、)とちょうど重なってしまったため、学級崩壊の原因のように言われたからだと思います。保育所の先生もいい迷惑です。実は本来、日本の自由保育は歴史も古く実践的・理論的なバックボーンも多くあり、一大文化をつくっていました。学習指導要領のようなものがなく(現在の保育所保育指針にも
学習指導要領ほどの法的拘束力があるかは疑問視されています)、また公的な支援に頼れない事情もあって縛りがなく自由度が高かったためだと思われます。

 その後は規制緩和が進み、教育特区や株式会社立の学校などが認められることで既存のフリースクールやきのくになども勢力を伸ばせるようになってきました。またこの流れは私立の小学校が新規にでき始めたこととも無関係ではないと思います。
 軽井沢風越学園などは、2000年ごろから設立準備構想がなされていたように聞きますし、N高、S高を紐解くまでもなく廃校利用のビジネスモデルや地方自治体の学校誘致優遇の利用は山村留学に端を発して、今となっては結構古い歴史を持っているとも言えます。

 既に歴史あるオルタナティブな教育は一定著名人を輩出しています。相当数の社会人を育成できることを証明していることにもなると思います。追跡調査を行わなくても良い状況なのはこちらとしては助かります。問題を起こしている学校もありますが、公立学校だって問題起こすやろと言われれば返す言葉もありません。

 ただそれはオルタナティブな学校に行った「から」人生が充実したのかどうかをはかることにはなりません。日本の教育を全部オルタナティブにすれば良いにならないのは、オランダにイエナプランの学校が増えたからオランダの国力が上がったという調査結果が見当たらないのと同じ理由だと思います。あったとしても信用しにくいのはどの指標(の組み合わせ)をオルタナティブな教育の成果として純粋に算定するねん?ということとその指標が他の要因と相関していないことの証明が困難、そして意図して実施すればそれはもう社会実験ではなく人体実験になってしまうことなどからです。

 長くなったので最後に日本でこの30年それほどオルタナティブな教育が隆盛しなかった理由を書いておきます。これからもさほど隆盛しないと思う理由も併せて書きます。まあ何を持って隆盛というのかは難しいですが、少なくともオルタナティブな教育に通わせたい人が全員気軽に通えるようにはならないと思います。
 まず文部科学省が学校を管轄する以上、ある一定の縛りは外さないからです。そこが圧倒的に親和性が悪い。利権を守れる程度に解放はするでしょうが天下り先を自発的に多数放棄するようなことはないからです。
 次に日本の教師は世界的に見て意欲も質も高いからです。しかも定額働かせ放題、やりがい搾取可能とくればある程度の理論で構成される質の教育などいとも簡単に跳ね返してしまいます。実際にはネットニュースやSNSで批判される授業の何倍も多くの良質な授業が毎日生産されています。宣伝者がいないから知られていないだけで。古臭い感覚で学校を批判するヤフコメ民を見ると一切共感できません。それにエキスパートがついてると尚更です。
 最後はこうした学校経営には大変コストがかかる上に、先ほども言ったようにコストパフォーマンスがよく分からないんです。お金持ちの自己満足にはいいかもしれませんが、普通の人にはなかなか負担しにくい額の授業料がかかります。そして稼げる人間に育つかは不明。これでは普及しにくいです。唯一授業料を下げる方法が人件費削減なのですが、これは公立学校のやりがい搾取のさらに上を行くことになります。実際私学助成の配分が少ない学校は例外なくこれでなんとかしています。N高はスケールメリットと授業の使い回し、厚志家の寄付で少しこの問題を回避しているように見せていますが、内実はそう変わらないと思います。

 まだまだあるんですが、これで十分かな。
誤解なきように言っておきますが、私はオルタナティブな教育は推進すべきだと思っています。(えっ)しかしそれは金儲けの道具ではなく、真摯な教育理念の先にあればのハナシです。そもそもそれが優先されない限りはどんなに公教育がひどかろうともオルタナティブに勝ち目はないと思います。勝ち負けの問題ではないですが、、

 書いてて色々思い出しました。また機会があれば書きたいですね。オルタナティブ。


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