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「最後の恋」①

「気色悪い、くそじじい」  
床に踏みつけられた口紅はキイーっと鳴いた。  

菅野広志八一歳。独身。すすき野老人ホームに入所した八カ月前、六十歳年下の南美にひとめぼれをした。しかし今日、給湯室の陰で自分の悪口を叩く彼女の本心を知ったのである。

彼女は孫ほどに年下の介護士だった。明るくて器量が良く快活な声で朝を起こしてくれる天使のような存在。ニコッと笑うと目尻が下がり奥二重の愛らしい瞳が揺れた。

それから私はあらゆる贈り物をした。時々手紙を返してくれたこともある。しかし広志の最後の恋は実らなかった。喜寿を過ぎた自分はあと何年生きられるかもわからない。無論、そんなことは彼女には関係のないことだが、べつに肉体関係を迫るわけでもあるまい。ただ、ほんの数カ月、数日かもしれない残された命を捧げる生きがいを捧げる人が欲しかっただけなのに。

途方に暮れる日々が激しく心を突く。泣き出したい気持ちになる。

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