戦国武将・肥後の虎【加藤清正】

戦国時代後半に活躍した武将。猛将のイメージながら、築城の名手としても有名。

石田三成と対立し徳川家康に与しながらも豊臣家の行く末を案じていた義に厚い武将。

永禄五年(1562)に尾張で誕生。十代になると秀吉の小姓として仕える。

秀吉に子がいなかったため正室のねねは、加藤清正や福島正則ら幼少期から秀吉の元へ送られてきた子を実の子のように可愛がって育てた。

天正四年(1576)に元服して、加藤虎之助清正と名を変えて中国攻めに従軍する。

中国攻めの最中に本能寺の変が起き、光秀を討った秀吉は、信長亡き後の権力争いとして柴田勝家と戦うことになる。

賤ヶ岳の戦いで武功をあげ賤ヶ岳七本槍と称されて、三千石の武将に昇格。

天正十四年(1586)に、肥後大名の佐々成政が失政で改易。後任として清正と小西行長の二人が抜擢されて肥後を二分して治めた。

清正は二十四歳の若さで肥後十九万五千石の大名に大出世を遂げた。

文禄の役、慶長の役の朝鮮出兵では指揮官として出陣。この頃に清正らの武断派と、三成や行長の文治派の対立が始まった。

清正は関ヶ原の戦地へは行けず、黒田如水(官兵衛)とともに九州の西軍勢力を撃破していった。

関ヶ原の後に処刑された小西行長の領土を与えられ肥後五十二万の国持大名へと昇格する。

慶長十一年(1606)に清正が築城していた熊本城が完成する。日本一の名城とも呼ばれ、現在は日本三名城のひとつに数えられる。

清正は慶長十六年(1611)に家康が秀頼に会見の要請をすると、豊臣への恩義のために秀頼の護衛をしている。

家康と秀頼の会見の直後に清正は発病し死去していまった。さらに清正亡き後、肥後加藤家は、二代目で改易されて潰されてしまった。

清正が残した熊本城は明治維新後の西南戦争で、新兵器を扱う西郷どんの軍勢にも落城せず、清正の設計の確さが実証された。

熊本では戦国武将といえば加藤清正。清正の人気は今でも高いレジェンド。

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