戦国武将・信長の精鋭部隊「黒母衣衆」筆頭【佐々成政】

織田家の馬廻衆としてデビュー。二人の兄とともに信長に仕えたが、兄たちは早期に戦死した。

信長のエリート部隊の黒母衣衆の筆頭となって織田軍の快進撃を支えた。

姉川の戦いの前哨戦では鉄砲隊を率いて活躍。その後も武田軍との長篠の戦いなどで鉄砲隊の指揮を任され、鉄砲隊指揮官としてのポジションを確立。

北陸方面軍団長の柴田勝家の与力となり、前田利家や不破光春とともに府中三人衆と呼ばれる。

成政は越前府中三万三千石の大名となる。

天正十年(1582)には越中一国の主となり富山城を本拠として大規模な改修を行った。

成政は勝家とともに上杉景勝の防衛拠点の魚津城を攻城。三ヶ月の攻城戦の末に攻略。春日山城への進軍もみえた頃に、本能寺の変で信長が襲われて横死した。

勝家が秀吉と敵対することになると、成政は勝家に与した。成政が上杉景勝からの防衛で動けないうちに、賤ヶ岳の戦いで勝家が秀吉に完敗する。

勝家が敗れた後、秀吉に敵対した家康に呼応し成政は家康側に寝返り。

家康が秀吉と講和することを聞いた成政は、険しい冬の日本アルプスを超えて家康のもとに徹底抗戦を訴えにいくが、講和の線は変わらず失意のまま帰宅。

結局、成政は秀吉に従うことになる。敵対していたのに国持大名と優遇され、肥後の大名を与えられる。

しかし肥後で大規模な反乱が勃発して鎮圧に失敗。周辺の大名が総出で対処する事態となって、その責任を取らされ最後は切腹を命じられた。

黒母衣衆の佐々成政と、赤母衣衆の前田利家。信長の古参であり、二人はともに柴田勝家の与力となって北陸方面軍の主力となったライバル。

成政の最後は切腹。利家の晩年は従二位権大納言にまで昇格し秀吉の五大老として、家康を牽制できる唯一の大名へと昇りつめた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?