戦国武将・赤母衣衆の槍又左【前田利家】

信長少年期からの連れ家臣。豊臣秀吉と同じ年で尾張の出身。馬廻から精鋭部隊の赤母衣衆に選抜され、槍の又左の異名をとった。

豊臣秀吉とも柴田勝家とも仲が良い。安土城下の屋敷で利家と秀吉は隣同士で正室のねねとまつも仲が良く、家族ぐるみの付き合いがあった。

織田信長の勢力拡大で北陸方面の司令官となった柴田勝家の軍に利家は与力として所属した。

オヤジ殿と慕っているのが利家と勝家の関係の定番。

赤母衣衆として信長の親衛隊で活躍していたと思われるが、信長の領土拡大の時期に突入すると勝家の与力となり、府中十万石の大名となり、佐々成政、不和光治とともに府中三人衆と呼ばれ北陸方面軍の主力となる。

信長の死後に、秀吉と勝家との権力争いになると両者の板挟みとなる。戦いには参加せず離脱し、勝者の秀吉に従った。

勝家が討たれた後は豊臣家臣として北陸を任され、同じく勝家の与力で主力だった信長古参の佐々成政と戦になる。成政も秀吉の快進撃に手が打てず降伏。

晩年は人徳で多くの武将から慕われ豊臣家の重鎮となり加賀百万石の基礎を築いた。

文禄三年(1594)には、毛利輝元、上杉景勝とともに利家は従三位に叙せられた。さらに利家は権中納言に任命される。慶長元年(1596)に、従二位権大納言に昇任している。

秀吉が死去する直前には五大老の筆頭格に指名され、秀吉の死後に武断派と文治派で分裂する豊臣家臣団を仲裁し、権力を拡大する家康を牽制していたが、関ヶ原の前年に病死。豊臣家の内紛は決定的となった。

利家の死後に前田家は家康から狙われたようだが、利家の正室のまつ、芳春院が世継ぎの利長を諌め自ら家康の人質となって加賀前田家を守った。

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