その伸び縮みしているような時間の中に身を浸さないと、生きる事が分からなくなる

『科学がつきとめた「引き寄せの法則」』James R.Doty著です。
脳科学・神経科学の視点から見る認知というもの、ひいてはそれが作り出す個人の世界観について、非常にすっきりと頭の中が整頓される本でした。そのせいか、400ページ超えですが、全く苦になりません。
これまでこういった系統のものを様々読んで、おぼろげながら何がどう繋がるのかがうっすら見え始めたところだったせいもあるかもしれませんが。

……などと言うと、どこかで見た話の寄せ集めだと、そしっているのかと思われそうですが(汗)。
確かに、そんな内容のレビューも見かけました。が、むしろ、前著の出版時期や、そこに書かれている著者の体験の時期を鑑みれば、この分野の言語化・理論化・体系化という先鋒にずっと以前から立ち、他の道標となりながら切り拓いて来られたのがこの著者でしょう。

おっと、批評はもっと得意な方にお任せする事にしまして。

私が驚愕したのは、心拍変動とコヒーレンスの話の部分です。


身体の最大の磁場は心臓

恥ずかしながら、私にはこれまで、心拍変動に関する知識は全くありませんでした。
一分間に60の心拍数の人でも、心がリラックスしている時、そのペースは一秒間に0.8~1.2と、一定していない。
反対に、ストレスや不安を感じている時はペースが一定なのだそうです。

感覚的には何だか逆のように思いますが、違うのだそうです。
一定しているのは良い事のように思いますが、これこそが思い込みの価値観でした。一定を硬直という言い方でとらえ直すと、確かに緊張状態と言えます。

ここを読んだ時、驚くと同時に、長年の大きな不可思議と懸念が解けました。

以前の記事でちらとお話したかもしれませんが、私は、山が大好きです。
誰もいない山に、静かに分け入り、
ふと、山に許されていると思った場所でじっとしている。
ただじっとしている。

私は、常に、脳のデフォルトモードネットワーク(一言で言えば内省)が過剰な状態なのですが、この時だけは、特に努力せずともスッと頭の中が静かになります。
そんな時、いつも思います。
全てがとても鎮静しているはずなのに、心臓が何だかおかしい気がする。不整脈のような。

変な大事にもなりたくなくて、誰にも言った事がありませんでした。
もしくは、完全な「理論」型で生きている家族に、この「感覚」は分かってもらえないだろうという思いと、もし実際にコテンパンに否定された場合の失望を想像して口をつぐんでいたとも言えます。

私は、自分の書いた物語の中で、主人公の奏介くんに、この感覚をこう表現させています。

 一般的なロングトーンの練習は、メトロノームを使って、例えば八拍ごと、のように、一定の拍と長さで繰り返し行う。だが今、奏介の耳に聞こえているのは、機械的に揃えられた拍ではない、早まる事もあればゆっくりになる事もある、一定になど定められていない一生の中で、様々な経験とともに変わる事の方が自然である、鼓動そのもの――命の呼吸そのもののようなロングトーンだった。

『そまみちを、これからもタクトと』八名木 遙子

一定の速さで流れているはずの時間の流れに対し、心臓の鼓動は早くなったり、遅くなったり。伸びたり、縮んだり。でも本当はその方が、生命本来の時間――外界と一緒に変化していくための速さなのではないでしょうか。
時々で良いから、その伸び縮みしているような時間の中に身を浸さないと、私は、自分がどう生きて行ったら良いのか――生き物として最も基本的なはずの事――今やるべき事――頑張る時と休む時――季節感――つまりは時間の流れの掴み方が分からなくなるような気がするのです。

白い目で見られるのかもしれないから口をつむぐ、私だけの奇妙な感覚なのかと思っていましたが、なんと、それすらも、著者Dotyは本の中で肯定していました(いると私には思えました)。
振動エネルギーとコヒーレンスについて触れられている部分です。


内部と繋がり、外部と繋がる感覚~『外部』の中には地球までも含まれる

コヒーレンスとは、自律的に機能しながら同時に全体とも完全に連動している状態の事です。

全ての物は振動し、干渉し合っています。つまり、全ての部分は全体と繋がっていて、全体の一部でもある。そしてさらに大きな全体の一部になっている。
身体で言えば、心臓の鼓動が中心となって振動し、脳波やその他神経系が自律的に機能しながらもそれに連動し、最終的には調和し、安定に至る。
それは自分一人の身体を越え、周囲の人間も越え、全ての生命も無機物も、つまり地球そのものとも調和して振動する。

この概念は、私には、自分が山の中に入った時の感覚ととてもよく一致していると思いました。

私は、山にたたずんでいる時の自分の感覚を、自分が山に置かれた石ころのような気持ちに感じています。
逆に言えば、そう感じられる状態になれなければ、山の中に長くいる事は許されないし、その感覚がふと消えた時が立ち去る時だと思っています。

 音の方角らしきものに少しでも近づこうと、奏介が一歩踏み出すと、その幻想的な世界はあっという間に、奏介の触れられない場所に離れて行ってしまう感じがした。何か――いつか見た小さなカナヘビや、しかしそれだけではない、一つでもない、たくさんの何かが、奏介の行動を諫めるのだった。
 居場所がない、と奏介は感じた。感じながらも、一歩一歩、歩いた。できる限り足音を忍ばせ、全ての命の営みの邪魔にならないよう、自分の存在を極力消そうと努めながら。

『そまみちを、これからもタクトと』八名木 遙子

これが、私の感じている、山と一体になれていない時の感覚です。山の中で異物感を感じている時です。

山が求めている事――今の山の状態を感じ取り理解する事、自分がその状態を必要以上に乱さずに溶け込むか脱出するか――を把握でき、心が落ち着いてくると、感じる世界が変わります。
私の物語中では、それを「聴く」と表現していますが。(それは、主人公の奏介くんが一番理解しやすいであろう音楽に関わる事で、最も基本的な感覚だったからです)

 次第に分かり始めていた。全ての命がその音を――ため息を聴いていた。大きい者も小さい者も、一生の長い者も短い者も、その一生を個々に生き、起き、走り、食べながら、同じ一つの音を聴いていた。音を聴く器官を持たない者でさえ、その音色が溶け込んだ山の大気から、起きている出来事を感じ取っているように思えた。奏介のようにそれについて何かを考えたり、論じたりなどせず、ジャッジする事もなく、ただ淡々と、その音を――ため息を――奏者の思いを受け入れていた。

『そまみちを、これからもタクトと』八名木 遙子

自然と一体になる感覚が好きな方にはたまらない描写が作中にあります、と銘打ちましたが、
同じ感覚優位型の人でないと理解してはもらえないだろうという気はしていました。
HSPの性質とも近い気はしましたが、もっと根本的な部分の感覚に迫る決め手に欠けていました。
本当は占いが大嫌いだったのに勉強しているのは、やっと少しでも分かり合えそうな気がした人達が占いを嗜む人が多かったので、その人達の共通言語を知らなければという思いもあったからです。
が、占いをやっている人が皆私と同じ感覚で生きているわけでもなく。当然ですが。

ともかく、ひっそりと理解者を探してさまよっていた私にとって、科学的証明と理論で成り立つ分野の職業人がする話と自分の「感覚」が違わなかった事は、非常な心強さとなりました。


あ、そうそう、言いたかった大事な事を忘れるところだった(汗)。

自律的に機能しながら同時に全体とも完全に連動している、究極のコヒーレンスの状態が、研鑽を積んだ人達の集まるオーケストラの演奏と言えるだろうと思っています。観客がそれに巻き込まれる感覚とか、まさにそうじゃないかと。

たかだか数年の楽器経験の部活生が、個人の技術だけ見たらプロには遠く及ばないのに、大会やコンサートで素晴らしく胸を打つ演奏が時折あるのは、彼らの作り出したコヒーランスに私達も巻き込んでくれたからだろうと思います。