夫のことを、知り尽くしたくはない。
「入れ替わり」といえば、これ。
映画はニ回とも、夫と観た。
一度目は、母と夫と三人で。
二度目は、夫の申し出で、二人。
「俺、あの映画の意味がよく分からんかったから、もう一回観ていい?」
と、不安そうに言う夫。
___分からなかったの!?
と野暮なことを言いそうになって、やめた。
そうよね、初回は母がいたもの。
緊張で、話が入らなかったのかもしれない。
だとしたら、観たあとに寄ったカフェで、わたしと母が盛り上がっているのを、どんな気持ちで聞いていたんだい?
すまんかったなあ、と思いながら観た二度目の「君の名は。」は、やっぱりとても面白かった。
もしも夫と、入れ替わったら?
「君の名は。」を観る前でも、そのあとでも、考えたことは何度かある。
入れ替わっても、夫を愛せるか。
どんなことが、できるだろうか。
単なる「入れ替わり」より、友達夫婦と片方が入れ替わってもうまくやれるかとか、過去にタイムスリップしても、もう一度夫と会えるかどうかとか、その方がよく考える。
でも今回は、夫との入れ替わりに限定する。
珈琲次郎さんのテーマに、のっとって。
まず、今この時点で入れ替わった場合、一番に気になるのは「子どもたち」だ。
彼らに、真実は知られない方がいい。
長男は気を揉むだろうし、次男は理解ができないだろう。
となると、子どもの前では、夫はわたしとして、わたしは夫として振る舞うしかない。
表面上は、イケる気がする。
敏感な長男は、気がつきそうだ。
「いつもと抱っこが違うねえ」とか言って。
家事育児の分担は、うまくいきそうだ。
わたしが夫の体で家事を担当し、夫がわたしの体で子どもたちの遊び相手を担当してくれたら、丸く収まる。
いつも、わたしが次男を見ながら、家事もやるので、「わたしの負担がデカい!」と不満がくすぶっていたが。
入れ替わればそこは、かえってラクかも。
気がかりなのは「仕事」だ。
私たちは「教師」という同じ職業なので、夫の職場にわたしが赴いても、まったくワケわからないということはない。
でも、無理だろう。
育休5年目、コロナ禍前の現場しか知らないわたしが、付け焼き刃で学校に戻っても、夫のようには働けない。
そもそも、子どもたちの顔と名前も分からない。
もし、ほんとうに入れ替わったら、即年休だ。
「仕事」に関してだけいえば、入れ替わると大ごとになる予感がする。
もうひとつ、困ることがある。
夫の体調だ。
夫は常々、体調不良。
からだが弱く、いつも疲弊し、頭痛や腰痛、吐き気などに見舞われている。
おまけに朝が弱く、体を動かすのも苦手。
そんなヘロヘロ人間に、なりたいとは思えない。
もしほんとうに入れ替わったら、夫の「しんどさ」を知ってしまう。
夫の心身の疲労を、体験してしまう。
そうなれば、彼の辛さやストレスや頑張りを必要以上に理解してしまって、元に戻ったとき、頼りにくい。
この人は、あんなにしんどいのを我慢して、子どもと遊んでいるのだなあ、とか。
こんなにストレスいっぱいなのに、わたしの愚痴を聞いてくれるんだなぁ、とか。
いやだ。
そういうの、知りたくない。
知らない方が、いいこともある。
いくら仲良し夫婦でも、夫が蓋をしている部分まで、見たくない。
体験したくない。
知り尽くしたら、甘えられない。
知らないから、平気でいられる。
入れ替わって、いちばんイヤなのは、「夫」のことを知り尽くしてしまうことかもしれない。
わたしたち夫婦の入れ替わりは、瀧くんと三葉ちゃんのようにはいかなさそうだ。
感動の恋物語には、なりそうもない。
現実で、抱えているモノが多すぎる。
オトナになってしまっている。
‥まあでも、そういうの抜きにして考えてみても、夫と入れ替わって良いことは思いつかない。
力仕事を任されるのは、イヤだし。
虫退治を担当するのも、イヤだし。
なにより、目の前にいつも自分自身が存在して、それを見続けなきゃいけないなんて。
苦行だ。
わたしの視界に、わたしはいらない。
今のままが、いちばんいい。
これからの人生に、「入れ替わり」が起きないことを心から願って。
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