千倉にて
これで「ちくら」と読むらしい。
千葉に20年近く住んでいるが、未だにほとんどの場所を知らない。難読地名クイズもこれ一つ分からない。多くの千葉県民はそんなもんだろう。境に住む者は境を越え、果に住む者は果に留まる。どこも大体同じだ。
5月初旬、せいぜいメッキで仕上げた程度の小休みに、何を思ったのか千葉を一周した。いや正確にいうと、チーバくんの下半身を一周した。なんとなく海が見たいとかの軽い理由だった。内房とか外房とか、どっちがどっちかよく分からない路線を適当に乗り継いで行けば一周できるだろうくらいの軽いノリで。
その土地を訪れたのは2日目の朝だった。前日に泊まった館山のゲストハウスを出発し、内房の海に別れを告げプラットフォームで電車を待つ。田舎あるあるなのだろうが、本当に電車が来ない。おまけに5月初旬お約束の猛暑だ。30分待って、江ノ電スケールの2両編成が陽炎にぼかされてやって来た。どうやら乗車する際に「開く」ボタンを押さなければならないらしく、そのルールを理解していなかった私は後ろに並んでいた小学生を多少苛つかせた。ボックス席からは田園風景を一望できた。盛り上がった草原には牛が3頭、先日観に行ったブルターニュの展示と同じような光景が広がっていた。どこに行くかも決めていなかったので、正面に座っていた男性と同じタイミングで降りることにした。そして降り立った駅が「千倉」だった。
構内はこれといって特徴なく、駅前も物寂しい。人気(ひとけ)もほとんどない。車もそれほど走ってない。15分ほど歩くと地平が見えてきた。その先は海だ。ビーチに出ると、それまでの光景とは一変した美しい海が広がっていた。千倉の海は碧かった。しばらく海岸線に沿って歩いた。相変わらず人気は少なかったが、砂浜に打ち上げられた海藻を拾っている地元民がちらほらいた。
小腹が空いたので、海辺のカフェで朝食をとった。客は自分以外に老人が一人。おそらく常連で、マスターと親しげに話していた。タイだかミャンマーだかの東南アジア系のストレートコーヒーを頼み、丁寧にハンドドリップで淹れてくれた。カリッと焼かれたトーストと彩り豊かなサラダをコーヒーで流し込み、店を後にした。
もう一度ビーチに出て、しばらく海を眺めていた。美しくもどこか寂しさを感させるその海は、ヘミングウェイの描くビミニの自然を彷彿とさせる。この町に暮らす人々は、そんな景色に生かされながら時を過ごしているのだろう。
正午を過ぎ、時刻表を確認して再びプラットフォームに戻る。海に沿って外房を北上し、次の町を目指す。
いつかまたここを訪れるだろう。
静かな町で、生きた海を見に。
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