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チープでメモ的な勝手に哲学 #004

伊丹十三という人は不思議である。

自分を惹きつけて止まない。
ずっと憧れ続けている人だ。

だが、自分が伊丹十三のどこに魅了されているのかがわからないから
不思議で仕方ない。底が知れないと言ってもいい。

知識と教養の圧倒的な量と同時に
広く深く無限に湧き出るクリエイティブな能力を合わせもつ。

しかも、それが見事に融合され、何倍にも増幅している。

それが自分を惹きつけているもののような気がするが
どうもはっきりしない。
ただただ不思議な感覚と感情を伊丹十三に対して抱いているのだ。

ちと、考えてみるか。

まず、自分はどの伊丹十三に最も惹かれ、興味をもっているのか?

イラストレーターとしての?
エッセイストとしての?
俳優としての?
テレビマンとしての?
映画監督としての?

ダメだ。わからない。。。。。
全部まとめて「表現者」として惹かれているということにしてしまうか?

いや、しっくりこない。
ざっくり仕分けしただけだ。
どこにも収まる感じがしない。

きっと伊丹十三が表現者たる由縁を「チープ哲学」する必要があるのだ。

映画は一通り観てきたので
一番手掛かりとなりそうな、
伊丹十三自身の書いたものを読む。

うーん。

物事への視点、その角度、そしてそこへの切り込み方がすごい。

何でもないような日常の、些細極まりないことに向ける視線がすでに違う。

「ちょっと待って。そこを取り上げるの?」という意表を突き、
「えっ、そんな視点で捉えるの?」という切り口を示す。

雑誌が終コンだと言われようと
作っていた雑誌が廃刊になろうと、
雑誌編集という行為がたまらなく好きな自分にとって
伊丹十三的なモノの見方、思考のアプローチは
ワクワクさせる要素しかない。

そうか。
雑誌編集者的な見方で伊丹十三に惹きつけられている自分がいるんだ。

20〜30年前、雑誌編集というと、書籍編集よりも下に見られることがあった。
書籍の中でも文芸が最高峰、至高であって、文化そのもの。
雑誌は広告料目当ての低俗で下世話なサブカルチャー。

瞬間風速的に物事を捉え、
無駄に消費されるだけの、後世に残ることのない情報を垂れ流しているのが雑誌。

これは自分が雑誌編集者だからという感情的な、一方的な意見だとわかっているが
雑誌が存在したのは、正統派の逆を張っている点に他ならないからだと思っている。

人間は文化的なものを求めるが、
その高尚さに気づいてしまうと、自分と文化の間にある距離の長さや大きさを知り、
引け目を感じ、卑屈になってしまう。

そして、刹那的なものに惹かれる「性」から逃れることは絶対にできない。

雑誌はそんな「隙間」に存在したのだと思う。

伊丹十三はその「隙間」にも足を踏み入れるだけでなく、
深掘りをして何かを発見できた人なのだ。

自分もそうなりたい。
しかし、なれない。
そこに伊丹十三という人物に取り憑かれている理由がありそうだ。

あぁ、なんてすごい人なんだ。
心底憧れてしまうよ。


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