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「野球例えおじさん」にはレギュラーか補欠かを聞け!

とにもかくにも世の中には野球例えが多い。
例えば、「打席に立つ」という表現。
これは、「実経験を積む」というニュアンスが含まれる。

仮に会社の上司から「若いうちは失敗してもいいから打席に立つことが大事だ」と言われたとする。それは失敗を恐れず自分からどんどん経験を積んでいった方がいいという意味であると、受け取り手は捉えるだろう。

「打席」というものは、「機会」もしくは「経験」の比喩といえる。

こうした「野球例え」は主に野球経験者のおじさんたちがよく使う。
何を隠そう僕も、大学まで野球部にいた生粋の野球経験者だ。そのためよく野球例えをされるし、自分でもしてしまう。

一方、これまで野球に触れてこなかった人は、言わんとしていることは分かりつつも、そのニュアンスにピンとこないと感じる人も多いだろう。

しかし、「打席に立つ」という言葉の感じ方に差が生まれるのは、未経験者よりもむしろ「経験者」だと思うのだ。

さて、改めて「打席に立つ」という表現について考える

打席とは、投手との対峙、勝負である。
そして、何かしらの結果(アウト、ヒット、三振など)が発生したことを一単位として数える。

プロ野球などでは、一定の打席数に到達しないと、打率のような記録は認められない。一打席で一本のヒットをうち、10割とはいかないのだ。

そのため、打席にはある程度の数が求められる。
そこで考えたいのが、その人に現在与えられている打席の数だ。

自慢じゃないが、僕は野球がめちゃくちゃへたくそだった。チームのなかでは補欠の補欠の補欠ぐらい。ポジションなんてあってないようなものだったし、ゴロなんて捕れたことより捕れなかったことの方が多い。

そんな僕なので、当然試合にも出ることできない。打席に立つことすらできない。監督の情けでたまーに代打とかで試合に出させてもらうぐらいだ(しかも二軍戦の練習試合)。そうなると僕にとって一つ一つの打席の価値は高い。数が少ないから、貴重なのである。デフレしている状態である。

一方、高校の同級生で同じ野球部のチームメイトに清田くんというやつがいた。彼は野球がとにかく上手い。50名ほど部員がいた野球部で一年生の春からレギュラーを勝ち取り、3年間中心選手として試合に出続けた。
当然、試合は常にスタメン出場。立った打席の数は僕の数百倍だろう。
彼にとっての一打席の価値は、僕と比べたら非常に低いのだろう。

清田くんはきっと打席に立つことが当たり前だと思っている。打席に立ったうえで、どの球種に狙いを定めようか、ランナーを進めるための打席にするか、出塁するための打席にするか、色々考える。

一方の僕は「打席に立つ」ことしか考えていなかった。どうすれば監督の眼にとまるか、試合に出られるのか。立って何をするかではなく、立つためにどうすればいいのかしか考えることができない。
例えば、バッティング練習でいい打球を打つ、練習している姿を見せるなどだろうか。
当時の僕は、「打席に立つ」ための行為すら、「打席に立つ」と認識していたと思う。

さて、あなたが遅くまで残業していると、ふと上司に飲みに誘われた。断る理由も見つからず、フラフラと付いていってしまったのが運の尽き。結局仕事の話になり、有り難いアドバイスを頂戴することになる。「お前はもっと打席に立った方がいい。」

この場合、上司の野球経験、もっと言うとレギュラーだったか補欠だったかを聞いた方がいい。
もし仮に、上司がバリバリのレギュラーだった場合は、「打席に立つ」とは「今やっていることで色々経験を積め」という意味になるだろう。
でも、補欠であればもしかしたら違う意味なのかも知れない。「お前はまず打席に立ててない。だから、打席に立つための努力をした方がいい」という意味を込めて言ってくれている可能性が出てくるだろう。

ここで考えたいのが、もう一つの「バットを振る」という比喩である。バットは振らないとボールに当たらない。何かアクションを起こさないと、どんな結果も得ることができないという意味で使われることが多い。

かつてレギュラーだった上司たちは、打席に立つ=バットを振るだと思ってないだろうか?
そもそも打席に立つことができているのか、その前提の確認不足はないのだろうか?

野球経験者は野球例えとの距離が近すぎる。その例えを使うとき、自身の経験に左右されてしまう。

僕は野球との距離が人よりも近い。野球例えは封印したいのだが、その場合何を使うべきか迷っている。

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