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信じることと、書くこと

 「ライターとして取材をするなかで、自分のことを話すのが上手でまとまりのある話をしてくださる方もいれば、話がまとまらずに、取材が終わった後に、『ごめんね、こんなまとまってない話して』っておっしゃる方もいるんです。そういう時に、それでも大丈夫だよって言ってあげられるような、信じてもらえるようなライターになりたいんです。」

 ゼミの中で、他の参加者の方から発された言葉。信じる、という日常生活から少し離れた言い方が妙に印象的で、しばらく口の中で転がした。

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 先月から始まった「みんな主人公計画 ライティング・ゼミ」。全6回のワークショップを経ながらインタビューやライティングの手法について学び、個人の人生を紐解く営みについて研究する。しかし、私は実を言うと、インタビュー自体に強い興味があったわけではない。
 参加者のなかにはライターとして既に活躍されている方もいるなか、インタビュー記事を書いたこともなければ、そもそもインタビューをしたこともなかった。私が惹かれたのはむしろ、みんな主人公計画、の部分だ。

社会に大きな影響を与えていなくても、長崎に電撃移住してカフェを開業していなくても、いいんです。本当は誰でも、自分の話を語っていいはずなんです。聴き役が必要なんです。「物語」を聴かせて、といえば大袈裟かもしれない。だから、「身の上話」を聴かせてもらうくらいの感覚で。その語りを文章に編み直せば、誰かの心に届く処方箋になり、御守りになる。

ライターの新しい「価値」と「在り方」を創りたい_(3)CtoC ライティング・コミュニティ構想


  森さんのnoteにあった一文。私はこの文章を読んだとき、今の自分に必要なのはこれだ、と感じ、急いでゼミに申し込んだ。何か自分の探している答えが、見つかる気がした。

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 親元を離れ、長崎に移住してからちょうど1年。この1年間は私の23年の中で、最も刺激的で、人に恵まれた一年だった。誰も自分を知らない土地で、手足をめいっぱい伸ばして泳ぐかのような感覚。それまで東京でできた友達より、この1年間でできた友達の方が多いんじゃないかと思うほど、周りに人も増えた。親や学生時代の友人にも、明るくなった、いい顔をするようになったと言われた。けれど、一方で、ちょっとした苦しさを感じることもあった。
 初対面の人に会うたび、何十回と聞かれる「なんで移住したの?」という問い。生きる場所を変えるという選択には、それなりの複雑さがあり、幾重にも重なり合った葛藤や迷い、決断がある。それは、薄暗い理由も、含めて。けれど、初対面の相手に長々と話すわけにも行かず、答えは単純化していく。「長崎の街並みが好きで」「父の故郷が長崎で」そう答えると、相手は満足そうに笑った。
 “移住者” “公務員” “20代女性” そんな私を構成する属性とそれに伴うイメージが、次第に私の身体に海藻のようにまとわりつく。どれも私を構成する要素だけれど、それだけで私が構成されるわけじゃない。”地域に興味ある若い子”として扱われて、ありがたいと思いながらも、「私のこと何も知らないくせに」なんて拗ねた思いが生まれるときもあった。
 長崎での私も大好きだけど、それまでの自分だって忘れたくない。忙しい日々の中でも、自分の輪郭を保ちたい。昔の記憶や日々感じる迷いをなぞってエッセイを書き始めたのも、それがきっかけだったように思う。

 考えてみれば、インタビューライティングというのは、かなり不思議な手法だ。自分のことを自分で話すのではなく、わざわざ他人の文章を借りて編み直す。それは本来、とても危ういことのはずだ。不本意な要約がされた記事が公開されてしまえば、私が経験した単純化の苦しさを、一瞬でなしてしまう暴力性を孕んでいる。けれど、それでも、相手が自分という存在を編みなおしてくれると信じる。そして、インタビュアーはその信頼を受け取り、解釈し、その人の一端を描く。インタビュー記事は、そんなふうに紡がれるのだろうか。
 そう思った瞬間、文章を書けるようになりたいという希望のおまけに過ぎなかったインタビューライティングの手法が、とても奥深いものに思えた。

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 「じゃあ、一つワークをやりたいと思います。好きな本から引用した部分の前後に文を書き足して、短い記事を作ってみてください。」
 惚けていた私の意識を引き戻すように森さんの言葉が響く。え、まじか。私はとても焦った。というのも、私は人に自分の書いた文章を見せたことがない。いわゆるZ世代のくせに、SNSが極端に苦手で、投稿は見る専門。noteのアカウントも持っているものの、下書きが増えていくばかりで、noteをメモアプリか何かと勘違いしているのかと呆れるほどだ。もちろんゼミの最後には書いたものを人に見せるタイミングがあるだろうとは思っていたけど、まさかこんなに早いとは。私はすっかり油断していた。
 そんな動揺をよそに、20分の制限時間がスタートする。やばい、書かなきゃ。何とか形にしようと必死になってスマホに書きつける。「そろそろ時間です」と声がかけられると、運動をした後のように息が上がった。

 「じゃあ、2人ずつのグループになって、出来上がったものをお互いに交換し合ってみてください。」
 そういわれて、ペアの相手になったみわさんに、書き上げた記事をおずおずと見せる。スマホをスクロールする指先をみつめる一瞬が、ほとんど永遠のように思えた。人に自分が書いたものを見せるというのは、こんなに緊張するものだったのか。バクバクと心臓がなって、全身の血が顔に集まる。
 読み終わったみわさんは、顔を上げ、「すごく真帆ちゃんらしい文章だなって感じた!」と言ってくれた。こそばゆさと嬉しさがいっぺんに来て、くちびるにぎゅっと力が入った。
 みわさんの記事も見せてもらう。同じ部分を引用していても、自分が書いたらきっと同じ着地点にはならない。みわさんらしくて、とてもあたたかい文章だった。

 その瞬間、私はふと気づく。私はこれまで、ちゃんと自分の内面を相手に見せてきただろうか、と。
 自分の内面を見せるのは、すごく勇気がいることだ。本音を話すのは恥ずかしいし、理解されないかもしれない。それが怖くて、つい耳障りのいいように取り繕う。そうやって自分を隠してきたのはもしかして、自分自身だったのではないか。隠し事を増やして、無難に振る舞って、それでいて、「私のこと、何も知らないくせに」なんて、なんとおこがましいのだろう。
 ようやくひいてきた緊張の熱が再び顔に集まってきて、今度は自責と後悔で赤くなった。

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 ライティングゼミから数日後。私は缶チューハイをぐいと飲み、その勢いでいくつかのエッセイをnoteに投稿した。変な汗が止まらず、落ち着きのない犬のように部屋をうろうろした。しばらくすると、2件のスキがついて、恥ずかしいやら嬉しいやらよくわからない気分になった。
 全世界に公開したのだからもう同じだ!と半ばやけくそで数人の友達にアカウントを教えた。友達に文章を見せるのは、身体の中を見せるようで、とてもドキドキした。でも、不思議と嫌なドキドキではなかった。

 私にとってエッセイは、自分だけの感性や考えを少しだけ人に見せる試みで、ライティングはきっと、相手のことを見せてもらう挑戦だ。相変わらずSNSは苦手だし、“公開に進む”のボタンはめちゃくちゃ怖い。でも、自分を知ってほしいし、相手を知りたい。誰かを信じてみたいし、信じられたい。
 そんな思いを抱えながら、今日も私はnoteを開いた。


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