コギトとクオリア ~「問いを問う」~

本稿は、自身の読書後の学びをアウトプットする目的で書いている。

コギトの概念について、自分の言葉で説明する。
コギトとは、「我思う、故に我あり」というデカルトの懐疑論の概念であり、自己の存在に対し疑う心を表す言葉である。コギトの価値は、あらゆるものを疑う過程で、「疑う」という行為を認めざるを得ず、また「疑う」という行為の主体である自己存在は、疑うという行為が行われている限りにおいて認めざるを得ない、という概念である。

クオリアとは、あらゆる事象に対する「感じ方」を指す。例えば、ジュースを飲んで「フレッシュで甘い」という感想を抱いた時の、ジュースの"味わい"の体験が挙げられる。このクオリアという概念の存在は、コギトと同様に、その存在を疑う中で存在を強固にする性質がある。クオリアの存在を証明するうえでは、他者のクオリアを考えることになる。(自己のクオリアの存在はコギトそのもので担保されている)他者のクオリアは自分のクオリアと同一か、あるいは異なるのか、はたまた存在しないのか。どのようであるか(認識論)~存在するのか(存在論)というような様々な深さの問いを投げかけうる。他者のクオリアを認識することは難しい。"甘い"という体験が私の体験と全く同じかどうかは判断しようがない。また、私が認識可能か(つまりこれまで体験したことがあるか)についても答えられない。クオリアの存在は認識論の枠外にある、存在論的アプローチをとらざるを得ない。一方で、先述のコギトのように"疑う"という行為からその存在を検証することもできない。この一連の営み(他者のクオリアがどのようであるか、存在するのか)事体をクオリアの存在と位置付けることができると筆者は述べている。

コギトとクオリアは似ている箇所もそうでない箇所もある。似ている箇所は、懐疑論的出発点の後、疑うという行為自体の存在性を担保にその(自己、あるいは他者の心)存在を認めていること。異なる箇所は、コギトは自己の存在という意味で疑うという行為を認識した瞬間に、存在が認められること、クオリアは他者のクオリアと自己のクオリアを比較したり、どの次元なのか(どのレベルで認識可能か、そもそも存在しているのか)を考えたりする行為によって、徐々にその存在が色濃くなっていく点にある。

クオリアは存在しつつ、どのようであるか(認識論)はわからない(語る事はできない)という風に理解している。書籍の中に、ロボットと人間の違いについて考察があった。巷のAIの発展により、AIは人間を超える、とかAIと人間が区別できなくなるとか色々騒がれるようになった。この文脈においていうと、「AIは心を獲得しうるか」という問いだと考える。この答えは「獲得しうる(というよりAIに心は存在する)」であろう。つまり、「AIには心があるのか/ないのか、在るならばどのようか、ないならば今後獲得しうるか」というような考えを巡らせていること自体が、「AIの心」の存在を高める。また、存在の次元でなくとも、「AIの心はどのようなものか」という問いに対しても、昨今のAI発展で、「それらしい返答」をするようになっている。つまり、とある入力に対し、"人間に似ている"回答をするようになってきている、とのこと。これは認識上の「人間の心」を模倣することに他ならないが、これは低次元の「人間の心の獲得」に他ならない。

諸説や様々な考えがある事は十分承知しているが、私見を述べると「機械に心があるのか、ないのか」は論点ではない(=存在する)、今後の技術発展により「機械の心の在りよう(挙動)はどうなっていくのか」が重要だと考える。

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