「上弦の月を喰べる獅子」の読書感想文

-本書の強みは、夢枕獏が独自の趣向で宇宙の本質に迫ろうと試みている点です。ほとんどが理論や数式で表現される宇宙の概念に対し、彼は文学的な表現で描写しています。

-作中に描かれた仏教やヒンドゥー教の世界観にフォーカスすることで、宗教的なアプローチから宇宙の本質を考察する方法が示されています。読者は新しい視点から宇宙の謎に迫ることができます。

-本書の読みどころは、数式化できないような微妙な感覚や思考を言葉で表現している点にあると考えられます。これにより、科学的な観点だけでなく、文化的な背景や感性に根ざした視点から宇宙を理解することができます。

-螺旋という観点から、生命や宗教、宇宙を紐づけ、表現していく。物事を区別、分類するという思考の方が我々現代人にはなじみ深いが、あらゆる現象や思考をつなぎ、重ねて、表すということもできる・できないではなく、存在することを感じた。

-人はそれを抽象的だと表すのかもしれないが、この世界に言語化できるもの、整理できるものが存在の総量に比べ、どれだけ少ない事かを知覚できないが想いを馳せる。我々人間が言語化できないものは、思考できるわけではなく、そういう意味で認識世界の外にある、我々には”イミ”のないものかもしれない。しかし、在ることに対して完全に無視できるわけでもなく、この書籍は最も我々になじみ深い謎である「宇宙、生命」を題材に逃げずに、向き合って表現しようと試みているところが心地よかった。

-人に何かを伝える、共有する際には言語を介したり、そもそも思考が必要であり、制限が多い。

-伝える事の不自由さ、不自由なゲームを日々している(仕事や遊びなど、他人と接すること。)のだなあと感じる。この感想、想いも誰一人として、書き手である私の真意を理解できるはずもなく、私自身表現したい事のごくごく一部かつ正確には出力できていないと感じている。

-この世界には、「常識」があることの違和感を痛烈に感じている。同じ人間同士で「共通認識」を持つことへの懐疑がある。精神世界と物質世界に分けた際に、物質世界では、「ヒト」がもつ共通の特徴(例えば、目が2つ、鼻が1つなど)については、共通認識を持てるだろうが、それだけでは「常識」の表す意味の幅を説明することはできない。共感力なるものが、ヒト(哺乳類)に備わっているかどうかなど、精神世界における"前提"(物質世界だと身体特徴)があるのだろうか。私はそこらへんの精神科学?と呼ぶべきところは不勉強なので不明だが、どうも実際と乖離している気がする。

-「考える」という行動を続けることは、なんとなく危険な気もする。この世界が区別、整理する方向に動いているのは、「考える」ことを減らす為だと思う。ただその一方で、ヒトの歴史を見ると、狩猟民族から始まり、農耕をし、やがて産業が興り、現在に至るが、コミュニティが増え、考えることも増え、複雑化している。「考える」ことがそもそも不得意(=考えるように設計されていない)、結果精神を病んでしまう性質を持つ人間が、この世界を続けていること(あるいは、続けざるをえないこと)に対し、不自然に感じる。最近流行りのAIも「考える」ことを代替することを望まれている(正確には”強いAI(汎用AI)”がその役目を持っている)が、上記の人間の本能とのズレを解消すべく発展させようとしているのではないか。しかし、知的活動における快楽(例えば、知る快感)の存在も認識しており、一概には言えないとも思う。

-今回は、あえて整理・区別しないで散文的に思う事を書いてみた。

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