企画展「もじ イメージ Graphic 展」へ行って @21_21 DESIGN SIGHT
感想(散文的)
・日本語の独自性。ひらがな、カタカナ、漢字など。他の言語はどうなのか気になった。
→簡単に調べたが、実は日本語は膠着語という、主語と目的語や時制(過去・現在・未来)を個別の単語で付与するという、世界的に見れば効率的で多数派な言語に属するのだと分かった。他には、中国語などの孤立語、英語などの屈折語があるらしい。
・表音文字(ひらがな、カタカナ)と表意文字(漢字)に対する役割や、人間の認知機能に関する研究が気になった。
→日本語はそれ自体だと区切りが分かりにくいため。英語は単語間に空白がある(=分かち書き)。後者は、「言語相対性仮説」と呼ぶらしい。つまり、「言語が個々人の考えや思考を制限する」と考えるのが「強い言語相対性仮説」であり、影響を及ぼす程度を「弱言語相対性仮説」と呼ぶらしい。現在は弱言語相対性仮説が有力とのこと。色覚に対する感度など、影響はあるものの抽象概念や科学的思考力には、言語は影響をほぼ与えないことが分かっている。
・本展示のデザイナーの多くが、文字がデジタル化したことによって「良さ」が失われたと書いている。つまり、表現が制限されているということ。文字に内在するそれ自体の"イミ"と比較し、文字のデザインの方が人に与えるイメージの幅(つまり解釈の幅)が大きいのかと思った。書き手と受け取り手の気持ちになると、デザイナー(書き手)は表現が制限され、より不自由になった一方で、受け取り手も得られる情報が均一化(面白みに欠ける)してきている、と言えるのかもしれない。無論、その背後には情報伝達の効率化や、発信の民主化を可能にした「デジタル化」があり、多くのデザイナーはそれらに対する危機みたいなものを警鐘しているように感じた。
・この展示(日本語のグラフィック展)を海外の方が見た時にどう思うのか気になった。(特に最初の紹介文の部分。日本語は絵文字などを多用していたが、英語は平坦な文章だと感じた)。対象としているのか?
・やはり分からないところは、展示会の参加者の多くが展示作品をやけに沢山撮影する事で、これは今に始まった事、この展示会に限らないのだが。取った写真は、見返すことがあるのか。沢山の写真を常に撮っているという事は一枚あたりの時間的な重み(のちに見返す時にかけられる時間)がごくごく少ないのではと考える。作品を見て直観的に「良い」と思い、次の思考回路として「とりあえず撮影、保存」というのは、文字通り逆のこと(忘却あるいは作品から目を逸らす)ことになってはいないか。
・作品の中で、「デザイン」に対する大衆の誤解を解く文章があった。ざっくりいうと、「何か無から有を生み出すが如く派手な創作活動をデザインだとみなしてはいないか。デザインは、問題解決の手法や物事の考え方も含む。気を衒ったものではない」
→デザインを通じて問題解決をしているデザイナーの言葉。感じる事はある。
・「デザインは非日常の特別なものではない。この文章自体のフォントや余白もまたデザインであり、多くのデザインは日常で知覚される事はない。そういう意味で、デザインは日常に潜んでいるごくありふれたものである。」
・昔風の映像が流れているブースがあった。いわゆる「味がある」という感想を抱いた。昔のCMなどもそうであろう。現在は、より技術が進歩してデジタル映像に載せられる情報量も格段に増えた。昔の映像はそれはそれで限られたリソースの中での工夫が見られた(RGB反転など)。それをなぜ「良い」と感じるのかだが、ノスタルジー(親しみやすさ)という感覚が近いのだろう。不自由な中の類似性の高さによって「快い」と感じているのかもしれない。その一歩で斬新なデザインを見た時も「よい」と感じる事もあり(本展示はそっちの方が圧倒的に多かった)、そのメカニズムが気になった。