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サバイバーマインドで生きよう

被害者か、サバイバーか?

『人はなぜ逃げおくれるのかー災害の心理学』という本にこんなことが書かれていました。

日本語には、英語のサバイバーに対応する言葉がない、と言ったのは、アメリカの精神科医のロバート・リフトンだ。リフトンは、広島で被爆した人びとへのインタヴューをまとめた著書のなかで、原爆後を生きのびたのだから、かりに放射線を浴びたことによる後遺症に苦しむことはあっても、彼らはサバイバーと呼ばれるべきだが、日本語では、彼らはあくまでヒバクシャ(被爆者)であり、生き延びたものを意味するサバイバーに相等するする言葉でみずからを呼んだり、また他者から呼ばれることはない、と述べている。私たちの社会では、多くの死者をだした大災害でも大事故でも、生存者は、被災者であり被害者であって、サバイバーではないのである。このような被害感覚は、日本の文化とも深く関わっているのだろうが、”生き延びた罪”(デス・ギルト)を、災害を生き延びた人びとに、強く意識させる遠因ともなっているのではないか。

確かに日本では、災害や大事故の生存者は、何年経っても被災者や被害者として扱われる傾向にあるように思います。テレビ番組では『あの災害から10年』など放映しますね。事故や事件に巻き込まれた人たちへの取材にしても「あの日を決して忘れない」「こんなに大変だった」「今もとてもつらい」的な被害者意識を前に押し出す番組が多いように思います。決してサバイバーではないのです。
もちろん「乗り越えて、今、元気でやってます!」という、見ていても元気になるようなうれしい番組もあります。

実際に被害に遭われた方々はたいへんな時期を過ごしてこられているわけですから、なかなか立ち直れてないとしても致し方ないと思います。とくに心のケアは時間がかかります。先ほどの引用に、”生き延びた罪”(デス・ギルト)とあります。これはかなり尾を引きます。

生き残ったあなたは生きていい

「人は助からなかったけど、自分は助かった」と思うと、罪悪感が芽生えることがあります。身近な人が亡くなるとよけいそう思います。

なぜあの人でなく、私が生き延びたのか? 

自分も被害者であっても、人を助けられなかったとして自分を加害者にしてしまいます。助かったことが罪であるかのように感じます。そして自分を責めてしまいます。

サバイバーとしての扱いとなれば、生き延びたことは良いこととなります。あなたが生き延びたという事実は否定されるものではなく、肯定されるべきもの。「亡くなった人の分も精一杯生きてください」とはそういう時によく言われます。サバイバーという自覚を持てば、生き延びることに意義を見出せます。

この考えの違いは大きな差を生みます。
被害者意識で過ごすのか、サバイバー意識で過ごすのか?

災害時のみならず、普段についても言えます。被害者意識を持ち続ける人と、自分は危機を乗り越えたサバイバーだと思うのとではまったく意識が違います。

被害者意識があると変わろうとしない

被害者意識を持っていると、どうしても後ろ向きな考えになります。自分で自分の人生の責任をもてません。「こうなったのは〇〇のせいだ」といつまでも他者批判をします。しかしあなたの人生を変えることができるのはあなた自身です。
被害者意識を持ってしまうと「私がこうなのは誰か/何かのせい」と思いますから、自分で自分の人生が変えられることに気づかないのです。自分で自分の首を絞めていることに気づきません。

人は自分のせいだとは思いたくありません。人や事象のせいにしている方が楽です。でも「私は悪くない、あなたが悪い」と言っている限り、人は変わろうとしません。そこが問題なのです。厳しいですが、あなたが自分自身にちゃんと向き合い、自分が作り出している現実に向き合わない限り、それは変わりようがありません。

また、「これは私のせいだ。私が悪いのだ。」というのも曲者です。自分を責め続け、罰し続けたところで、それは実は自虐的自己満足であり、本当の解決にはなりません。

日本人はスーパーサバイバー民族!

私たち日本人は今までずっと多くの災害に立ち向かって復興してきました。原爆からも災害からも。相当なサバイバー民族です。そう、日本人はスーパーサバイバー人なのです。日本人の精神の根っこにはものすごいパワーが潜んでいます。実際、そういう人たちもたくさんいます。

が、戦後だんだんと骨抜きにされたこともあり、自虐傾向や被害者意識が強くなりました。メディアではそういう内容を多く扱います。東日本大震災の時も、何度も何度も津波のシーンを放映し、それを繰り返し見て調子を崩した人たちも少なくありませんでした。「ならば、見なければいいでしょ」って話ですが、つい見てしまうのでしょうね。

サバイバー意識はあなたを強くする

今は、先が見えない、これからどうなるのか?と不安材料が満載ですが、被害者意識でそれを受け取れば、「コロナになったらどうしよう?」「収入が減ったらどうしよう?」「国はもっと国民のことを考えるべきだ」「ワクチン接種は大丈夫なのか?」と不安や不満てんこ盛りです。

サバイバー意識であれば、「よっしゃ、乗り切っていこうぜ」「逆境はチャンス!」と荒波に進んで乗っていく前向きさが生まれます。テレビも、不安材料をほのめかすよりも、元気になる内容をもっと放映してくれるといいですけどね。

しばらく前に『半沢直樹』や『鬼滅の刃』がヒットしましたが、それらは強いサバイバー意識に基づいたストーリーです。とんでもない逆境にも立ち向かい、打ち勝っていく姿は心強くもあり、『半沢直樹』においては、水戸黄門的な「正しく生きた者が勝つ」という安心感や共感、勝利感を与えます。

テレビは罪悪感と優越感を刺激する

私は普段テレビを見ないのですが、たまに見ると気持ちが塞ぐような内容が多いように思います。コロナに関してだけでなく、「あの病気が怖い」とか「高齢になると...」「こんな危険が日常に潜んでいる」という内容の番組をよく見かけます。これらはすべて「あなたも被害者になる可能性がある」という視点です。

話がそれますが、テレビを普段見なくて、たまに見ると、すごくきついなと感じます。朝食や夕食を食べている時に、殺人事件や事故の報道をしていたり。
慣れてしまえば気にならないのですが、たまに見ると、よくそんなの見ながらご飯食べれるな、と何も感じなくなっていることに怖くなります。知らないうちに、いろんなネガティブ情報にやられるんでしょうね。

人の中にある「罪悪感」と「優越感」は曲者です。
自分は幸せに過ごしていても、テレビでいろんな問題を報道します。それを見て、「人は不幸なのに、私は幸せでいいのだろうか?」と罪悪感の積立貯金をする人がいます。その溜まっていく罪悪感はどこかで精算されます。つまり良くないことが起きます。イヤなことが起きることによって「私もたいへんなんですよ」と帳尻をあわせます。

これは言い換えると、コンフォートゾーンの話です。まわりの人たちと同じであることが居心地良いコンフォートゾーンになっていると、そこから出ることは居心地悪いです。なので、まわりを基準にして合わせてしまいます。

テレビをよく見る人は、テレビで流される情報がコンフォートゾーンになっている可能性が高いです。そうなると情報に振り回されてしまいます。

テレビは罪悪感も優越感も刺激します。どちらも中毒性があります。そういう世界に毒されていると、いつ被害者になるだろうか?という不安で過ごすことになります。
見なければ刺激されませんし、それに染まりません。見なくても世の中から弾かれたりしません。たまに話についていけないですが、「テレビ見ないんで」と言えば問題ありません。

ここは自分が主導権を握って、自分のコンフォートゾーンをもっと意識の高いレベルにもっていきたいところですね。

「優越感」を持つ場合、人の不幸を見て「私は幸せでよかった」と思います。自分の幸せ感を感じたいがために人の不幸を見たがる人もいます。自分のエネルギーが下がったりブレたりしないように見たがらない人もいます。

人の不幸を見て「自分はそうでなくてよかった」と安堵を感じた時、罪悪感を感じ、自分を責める人がいます。そんな時は「人間とはそういう生き物だ」と思いましょう。そう思ってしまうのはいたしかたないと。自分にもそういう面があると認め、受け入れたうえで、ではどう行動するか?を決めればいいです。

まずはあなたから幸せになろう

これからますます厳しい状況になって暗いニュースが増えていくと、多くの人が無意識にその重い空気にあわせてしまいます。そうすると不安が増し、気分が重くなります。

まわりに合わせてしまう人や情報に振り回されやすい人は、そのところを強く意識して止めるようにしましょう。「みんな苦しんでいるのに、自分一人、楽したり、楽しんでじゃいけない」と思ってしまう人ですね。そういう人は意識して止めないと自動で重い空気感に合わせてしまいます。

そういう空気感にほだされず、反対に、みんなに希望を与えられる存在になる方がいいですよね。非難も受けやすくなりますけど。

大切な人を守りたい気持ちはあなたを強くする

『鬼滅の刃』は猛烈なサバイバー意識に根ざしています。またそのサバイバー意識は、炭治郎にしてみれば「妹を守り、人間に戻したい」という強い思いが原動力となっています。

「自分のために」より「誰かのために」という強い願いに、人は強い精神力を発揮します。「誰かを守りたい、助けたい」という思いが強い人のほうが生き残りやすいでしょう。が、反対にその人を助けられなかったら、猛烈な ”デス・ギルト” に苛まれます。

炭治郎は、恋人を鬼に殺された男性に言います。
「失っても失っても 生きていくしかないんです。どんなに打ちのめされようとも。」

炭治郎の家族は妹一人を残してみんな鬼に殺されました。彼には、生き残っけど鬼になった妹がいたから、生きていく選択肢しかありませんでした。妹が彼を生かし、強くしたとも言えます。あなたが守りたい人は、あなたを生かす人にもなります。

「守りたい人がいるから強くなる」系の話は少年マンガにものすごく多いですが、その思いは同時に戦いや復讐を生みだすので、強調されすぎるのも要注意です。

生きている実感を感じたい

最近の世の中は物に溢れ、便利になり、物理的には豊かになった分、ハングリー精神を持つこともなく、何のために生きているのかもわからず、自分を見失い、無気力になっている人が増えました。

『鬼滅の刃』のヒットの要因は色々あるでしょうが、その一つに必死で生きる姿への共感が挙げられるのではないでしょうか? 生きていく意味がわからず、無気力に日々を過ごしている人たちが暗に望んでいるのは、生きている実感を感じること

マンガや映画などでよくある設定は、その実感を感じるのは生死のはざまに立った時。極限にまで追い詰められた時、死を目の前にして ”生きている実感” を感じます。
エンターテインメントでの疑似体験であれば、実際に自分がそうなっているわけではありません。それで満足できるといいですが、その実感をもっともっと感じたいと願ってしまうと現実でそれが起こりかねません。現実で起きてほしいなら、まわりを巻き込まないよう要注意ですね。

そこまで極限に至りたくないないなら、違うかたちで生きている実感を先に感じるといいです。私はそこまで切羽詰まりたくないので、もっと楽しいことで生きている実感を感じたいです。

この過渡期に、サバイバー精神で「何が何でも生き延びてやる」という強い精神力を持つ人が増えていくといいと思います。そのためには、守りたい人でも、やりたいことでも、何か「これがあるから今は死ねない」と思うものがあると生き残る率は増します。また反対に、生に執着せず飄々と生きている人も案外生き残るタイプなのかなと思います。


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