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なぜ自然に接していると穏やかになるのか?

身近な小さな生き物たちとともに

ここしばらくフェイスブックで自然ネタをアップしてました。
それで思ったのですが、子供の頃はこんな感じだったのかなあ?

身近な生き物に接するのを楽しんでいたような? 田舎だったし、よく庭や外で遊んでいた気がします。動物が好きだったので、子供の頃は将来は獣医か、動物園の飼育係になりたいと思ってました。

身近な生き物といえば、、、

アリ、ゲンゴロウ、トンボ、カエル、オタマジャクシ、セミ、ヤモリ、ザリガニ、コオロギ、バッタ、カマキリ、ミミズ、タニシ、アメンボ、クモ、ネズミ、モグラ、猫、犬、鶏、ヒヨコ、ハムスター、、、
  
生き物によりますが、捕まえて遊ぶより、見て楽しんでいたように思います。草木や生き物のある生活が心地よかったのでしょう。

ゴキブリ、ゲジゲジ、ムカデ、ノミ、ダニなどは身近な生き物とはいえ、できるだけ距離を置きたいですが><
  
イタチ、鹿、猿、狐、狸あたりになると里山にいて、ごくたまに遭遇する動物って感じですね。

幼稚園や小学校に行くようになって、人ばかりいる環境になって、なにか不自然に感じたんだろうなと思います。小学低学年の頃、「私の友達は自然だけだ」と人を敬遠していた記憶があります。

自分が感じ続けてきた違和感の正体は、エゴ意識による分離感だったんだろうなと近年わかってきました。飼っている猫や身近な自然に触れながら、人と接する時とこの感触の違いはなんなんだろう?と今も観察しています。人間も自然に含まれるので分けるのも変ですが、何かが違うんですね。

子供の頃は周囲との一体感覚が強い方だったのだと思います。個体としての自我が確立してなかったとも言えますが、自分という境界が曖昧だったのでしょう。
人との関わりではそれが分断されて、よくわからないままに居心地が悪かったんだと思います。

お互い期待しないとラク

今一度、違う角度から見てみると、身近な自然に接するのは、こちらの一方的な自己満足とも言えます。なぜなら自然はこちらに何も要求しない。世話をしてるなら、食べ物や水やりとかありますけど。

思い通りにいかないことも多いですが、こちらのすることに反論はきません。蜂に刺されたり、動物に襲われたり、畑を荒らされたり、天災や悪天候はありますが。またこちらもそんなに期待しません。猫はツンデレだし、植物が育たなかったり虫にやられてもあきらめがつきます。
 
人間同士だと意見の相違や考え方の違いなどいろいろ出てきます。人間同士は通常、エゴ意識でのやり取りします。だからいろいろややこしくなります。いろんな反応を察知したり、余計な詮索や期待、心配をしたり、意見の相違があったり、いろんな感情が渦巻きます。

自然界は無意識への入り口

人間以外の自然に接していると別の世界を感じることができます。言葉になってない、目に見えない世界、無意識に通じているというか、扉の向こう側を感じる、みたいな。私の中にそういう領域に惹かれる部分もあるのでしょう。
  
スピリチュアルでよく「一体感」とか「ワンネス」と言われますが、思うに、宇宙意識になるとか、悟るとかは自我意識が求めるものだと思います。

今この場で、生き物たちと場を共有している感覚はもっと自然な、もともと私たちが持っている一体感ではないでしょうか? 

あたりまえでさりげない一体感。

自分という存在が自分のみに限られず、いろんなものを含んでいる感覚です。その意識が広がれば、含まれる生物や非生物も増え、分離感がない状態が普通になります。時空間や意識を共有している場の生命体に自分も受け入れてもらえている、属している、そんな感じでしょうか。他者感があまりないのです。

しかしいつもそう感じるわけではありません。大木や岩、山のような存在感あるものが目の前にあれば、自分ではない他のものという他者感は強くなります。うちの猫に対面するときも他者として接しますが、一緒に住んでいるのでつながり感は感じます。そうなってくると、こちらの主体的な感覚なのかなと思います。

エゴ意識は分離感に基づく

個体意識、つまりエゴ意識の強い人間は個体感が優っているので、分離の視点から外の世界を見ます。自分と他者を分けます。

言語を使うこと自体が「分離」で構成されています。言語はものを分けることで成り立っています。そういう言語を持たず、自我の薄い自然のモノは「分離」という認識をもってないのでしょう。個体としての認識はあれど、「自分」と「他者」という明確な区別は薄いと思います。

人も本来、自然のものであり、そういう空気感の中にいた生き物です。今は自我が発達したため、その状態を感じにくくなっています。分離感覚の薄い状態の自然に接することで、分離感のなかった元々の状態を思い出すのかもしれません。

じゃあ、物に対してはどうなの?という疑問が生じます。つまり人工物ですね。コップとか、スマホとか、靴とか。これらには自我意識がないので分離感覚を持っていません。しかしそれらに接する時、こちらは分離感満載です。私がいて、目の前に物があると認識します。

これもまた自分の主観による、と言ってしまえばそうです。Macは生き物のごとく、ですし。使いこなした道具や楽器などには意識が宿ると考える人もいます。

日本には「物にも魂が宿る」という考え方がありますが、私はこれは湿気による影響が大きいと思っています。湿気は水分です。水は情報を伝達しやすいといいいます。そこに含まれるいろんな情報が湿気を通して物にも伝播します。人の想念など付着しやすくなります。カラッとした乾燥した天候のところでは感じにくいです。
もちろん情報を読み解くことで、その背景にあるものを感じ取るということもありますが、物理的に湿気に含まれることで、それらを感じ取りやすくなります。

自我意識が芽生える以前の一体感

子供の頃は自我の境界はまだ曖昧です。私の場合は、自分と自然との境界が曖昧で、人との境界はすごく感じたのかもしれません。自然と接していると、相手側の自我はあまり感じないので接しやすいです。人の自我は自分とはまったく別物で、異質感をを感じていたのだとしたら、分離感、他者感、疎外感を強く感じとって居心地悪かったと思います。あるいは自意識過剰だったのかも。

かといって、今の自分が人との一体感を望んでいるのか?というと、若い頃はともかく、今はそうでもなく、どちらかといえば、人と接するのは面倒くさい感の方が強いです。自然と接している方が穏やかでいられます。

子供の頃、自然が友達だと思っていたのはこういう感じだったのかなー?とまた感じ始めています。見守られているというか、包まれているというか、分離感を感じません。私は地球への執着がけっこうあるのですが、こういう感覚を受け続けたらそりゃ好きになるわなと思います。

それは自然がそういう気を発しているというより、自分本来、人間本来のエネルギーがそういうものなのかもしれません。自然を介してそれを感じ取って、自我意識が芽生える以前の一体感を思い出しているということも考えられます。

人はもともとその状態であったのですから、そういう精神状態を保てる人が増えると、世の中が穏やかになるだろうなーと思います。いい意味で動物的、野生的、つまりは、自然体。

現代は極端に自我が発達してしまったため、いろいろ弊害がでてきます。今また意識の次なる進化の段階が来ています。以前とはまた違うかたちでの、自然との一体感的な自我成長の段階と言えます。

話は突然変わるのですが、そうなってくると「現状の外のゴール」はどうなるのだ?と、コーチをしている私などは思ってしまいます。今述べた状態は自分にとては超コンフォートゾーンですから、そのままそこにいたら安定しすぎて変化しなさそうです。しかしきっとそうならないだろうなと思います。
そのことについてはまた別記事に書こうと思います。


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