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鬼滅の刃と能と狂言と闇

告知を見た時、これはイケるぞと思いましたが、公演は期待以上でした。 
伝統の能や狂言のしきたりを超えて、能の独特な時間の流れと空間認知、音や照明がとても効果的に使われていました。
エンターテイメント性も十分に考えられていて、アニメや能、狂言のイメージを崩すことのないまま、リアルな舞台で私の脳内をゆらがしてくれました。 

時間と空間の使い方がとてもうまく演出されていて、共感覚的に意識空間の多次元構造を感じ、脳内で異次元空間が広がっていく感覚を時折感じました。
その異空間は"闇"と言っていいですが、悪い意味の闇ではなく、顕在意識が得体の知れない無意識領域を暗黒の闇と感じている… そんな印象です。

昔の日本にはそういう空間が日常的にありました。
ぼっとんトイレ、押入れ、暗い廊下の向こう、暗闇、虫の音、井戸、蔵、森など。異界への入り口は身近でした。

昔は、時折やってくる芸能を観て、想像をふくらましていたんだろうなと彷彿させられました。祭り、神楽、劇、紙芝居、見せ物小屋、腹話術、獅子舞、大道芸、琵琶法師、おばあちゃんの語り部などが非日常的な世界を醸し出し、人々がその時だけは日常を忘れ、あわいの空間や異次元を感じたんだろうなと思います。うしろに巨大な未知なる時空間が広がっているように感じます。

その後、それらはテレビにとって変わりましたが、テレビには非日常やあわいは感じられません。今はフェイクニュースや嘘の報道などで違う意味での闇が見え隠れしますけど。

能も鬼滅の刃もあわいの空間の話と言えます。現実というより超現実な世界です。
鬼滅の刃の鬼たちは心に傷をもつ元人間。あわいの存在です。

能舞台という非日常空間で行われる異界との接触。
野村萬斎さんの鬼舞辻無惨が昔を語る時の臨場感は半端なかったですし、他の役の方々もきまっていました。

あっという間の幻想体験。
終わり方は少々唐突でしたが、第二弾があってもおかしくない終わり方。
続きが観たいと思いました。 

得体の知れない世界がもたらす豊かさ

ところで、近代の頃から「闇」を明るみにする傾向があります。
すぐ明かりをつけたがるし、コンビニなどは夜は白い光でまぶしいくらいです。

闇を闇として感じる感性は大切にしたいです。この場合の闇は「あわい」「不確か」「無意識」「非言語」「非論理」など論理や言葉で表せないことであり、悪事という意味の闇ではないです。

私たちにとって得体の知れないもの。存在するのかどうかも定かでない。
しかし私たちはみんな自分の中にそれを持っています。それとうまくつきあえあば滋養となり、心が豊かになります。

反対にそれを排除しようとしたり、悪いものとして扱うといびつになります。
近代以来、先進国がしてきたことがまさにそうです。”闇”を不要なものとして取り除こうとし、結果主義、合理主義で突き進んだ結果、そのアンバランスさにより、人間自身が闇と化してきています。

昔の日本は、外の世界にちゃんと闇的なものが収まる場がありました。魑魅魍魎や鬼、妖怪、荒ぶる神の存在や、山、磐座、神社など人外のエネルギーが宿る場もたくさんありました。日常空間にそれらが交わる場はたくさんあれど、「ハレ」と「ケ」という言葉があるように、それらとの住み分け(メンタル的にも)がある程度できていたように思います。それは人としての一線を超えることの歯止めになっていたと思います。(平安時代はけっこうごちゃ混ぜだったかも…)

縁側のように外と内が混ざる場を生じさせることで、逆に「ここから先は別領域」という境界(結界)をはっきりさせました。鳥居や御神木、禁足地の山、見ることのできない御神体などもそうですね。

しかしそういう場がどんどんと取り除かれていき、闇の居場所が少なくなった結果、街中や人の心の闇が大きくなってきました。人が鬼化することが増え始めていることも、鬼滅の刃の人気につながっているのではないでしょうか? 

居場所をなくした闇が居場所を求めて表出してしまう。自分の存在を知らしめるために無差別殺人をするのもそういう一例です。
その根底には、善は善、悪は悪と割り切れない悲しさ、虚しさ、報われなさが潜んでいます。これは能や鬼滅の刃に共通するテーマです。

闇を「まだ顕現していない未知なる可能性」とすると、「明るい闇」と「暗い闇」があると言えます。闇は鏡のように、見る側のありようを反映します。
「暗い闇」は人の心の暗い部分が投影され、「明るい闇」はその可能性を良い方向に用いると言えます。芸能やアート、発明、変革、その他創造的活動などが当てはまります。

私たちが普段使っている顕在意識は3%ぐらいで、無意識が97%ぐらいだと言われています。また、この宇宙では、物質が5%未満、残りはダークエネルギーとダークマターに満ちていると言われていますから、ほとんどが未知(闇)なのです。

得体の知れない未知なる部分。それを臭い物にフタをするように闇に葬るのではなく、それと親しくなることで違う世界がひらけていきます。そこには無限の可能性が眠っています。

ということを感じさせてくれた「能 狂言『鬼滅の刃』」の公演でした。


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