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ひぐらしが満ちる空間にて、日本人の根底に流れる感性について考えてみた

ひぐらしの音が響き渡る森にて

今日の記事は、前回の記事や、前に書いた記事『幽玄な世界に想いを馳せる』にもリンクしてます。前の記事では、日本は湿気が多いので、大気になにかが含まれている印象が強く、それが見えない存在を彷彿させやすいと書きました。今もその考えは変わりませんが、湿気だけではなかったなと夏も終わる頃に気づきました。

それは虫の声。
近所の裏山は、夏になると、ミンミンゼミではなく、ひぐらしがずっと鳴いています。私はひぐらしの鳴き声が好きです。物悲しく幽玄な雰囲気を感じさせる音色です。
もう秋になり、ひぐらしは鳴き止み、秋の虫の音になっています。晩夏にひぐらしがあたり一面に鳴り響いていたのを聞いて、ああ、日本は虫の声もあったなと思いあたりました。

ひぐらしに限らず、他のセミや鈴虫、カエルの合唱、名前がわからないですが、夏前からジーと鳴く虫などもいますね。これらの虫は一か所からピンポイントで声が聞こえるというよりは、空間が音(鳴き声)で満たされていることが多いです。
セミはもう終わりましたが、今度は秋の虫の音です。ぜひ耳を傾けてみてください。

日本の空間は湿気と音に満ちている

都会ではどのぐらい虫の音が聞けるのかはわかりませんが、高度成長期前の日本であれば、わりとどこでも虫の音は聞こえていたと思います。虫の音をあまり聞かなくなったのはごく最近になってからの話です。日本人はほとんどの年月を、虫の音に満たされた空間の中で生活していました。この感覚はかなり深く日本人に根ざしているのではないでしょうか? 
それプラス湿気です。「空間は密である」と意識せずとも、そういうものだと感じている可能性は高いです。

何もない空間は空っぽではなく、「目には見えないモノが詰まっているところ」となります。極端な言い方をすれば、異界への入り口と言えます。右脳的言語の入り口です。

その感覚が以心伝心など場の空気を読む人たちを育てていったとしてもおかしくありません。それが社会により歪められてしまって、「人と同じでなければいけない」「目立ってはいけない」という風潮になってしまったと推測されます。他の要因もいろいろあるのでしょうけど。

自我が薄まると、まわりの声が聞こえ出す

自我が”薄い”とまわりの”声”が聞こえます。「聞こえる」と書いてますが、音として聞こえるとは限りません。気配を感じとったり、瞬時に理解したり、その認知の仕方はいろいろです。
その時、自我の自立が確立されてないと、まわりを気にしすぎたり、自分と他者の区別が曖昧になったり、幻聴、妄想の類となり、混乱してしまいかねません。
子供の頃は自我が確立されてなくても、その境界線が曖昧です。自分以外も想像の産物もすんなりと同じ世界の住人とみなしますから違和感は少ないのでしょう。

まわりのモノの”声”が聞こえるようになると、視点がエゴ発の自分中心でなくなります。まわり(人以外も)があなたに話しかけるような状況になります。まわりのモノたちに見られている感覚です。その感覚が強くなると、異類婚姻譚や動物と交流するおとぎ話や不思議話、妖怪などが現実味を帯びてきます。

深い森に一人で入った時、何かに見られている感覚を得るシーンは映画などでよくあります。私もそんな森に行ったことがあります。草木がすべて人間みたいに意識を持っていて、こちらを眺めているように感じました。そこかしこから彼らの会話が聞こえてきそうな、今にも動き出しそうなファンタジーの世界でした。
ジブリの世界観などもその類ですね。

昔は無意識に誘う入り口がたくさんあった

昔は森(山)は人の手もまだあまり入っておらず、鬱蒼としていたでしょう。まだ電気が通ってない時代の暗闇は大きかったはず。闇の力ははかりしれません。
ある人が田舎暮らしを始めようと田舎に移り住んだけど、夜、まわりが真っ暗すぎて怖くなり、結局、街に戻ってしまったという話があります。それぐらい私たちの多くは暗闇に馴染んでいません。
夜は森から野生の生き物の声も聞こえます。うちの裏山は鹿が生息しているのでよく鳴いています。鹿の鳴き声もひぐらしのようにどことなく物悲しいです。

闇も森も水も無意識とつながっています。無意識を彷彿とさせる要素が昔はたくさんありました。ボットン便所などもそうですね。下に広がる穴がとても怖い。昔のトイレは汚物を見えにくくするためか電気の節約か、トイレが薄暗いライトだったので、ますます怖かったです。現実的に落ちたらどうしよう?という恐怖もありますし、得体の知れないモノが出てきたら?など想像してしまう怖さもあります。

顕在意識にとって無意識は未知の世界です。いわば暗闇のイメージです。夜になると暗闇がポッカリと口を開け、私たちを無意識の世界に誘います。暗闇に馴染んでいれば、恐怖もあれど、未知の世界への好奇心もあり、また同時に安らげる空間でもありました。しかし馴染みなければ、恐怖心が沸き起こります。

満月の光も空間を満たす

満月の夜は外に出るととても明るいです。都会では残念ながら電灯がどこかにあって、なかなか人工灯なしで月光浴できませんが、月光のみのあの不思議な明るさはぜひ体験してほしいです。

満月光は空間が月光で満たされている状態を感じます。そんなこと言ったら、日光もそうじゃね?と言われそうですが、確かにそうですね。でもかなり明るいので、物体が明らかに見える分、そちらに意識がとらわれて、空間に満ちている光には気づきにくいです。
満月光は明るいとは言え、薄暗いです。普段の夜には見えなかったものが見える状態です。全体的に銀灰色のベールに覆われていますから、その色(光)に満たされている感じがします。これは外国でも同じです。

日本の空間はいつも何かで満たされている

私は海外に何年もいたため、大気の違いに気づいて、日本の湿気がもたらす影響力について思い当たりましたが、ずっと日本にいたらそのようには思わなかったでしょう。当たり前すぎて。

突き詰めれば、当人がどこに意識を向けるかということになります。しかし多くの人が無意識に環境感化を受けます。そしてそれが思想や行動、習慣のベースになっていきます。

日本の風土は、日中も湿気と音で空間が満たされやすい状況にありました。風鈴は人工物ですが、音が空間に広がりますし、音で涼しさを醸し出すのはまさに共感覚。虫の音の影響を受けているように思います。わざわざそういうものを作るのですから馴染深い感覚なのでしょうね。

日中も空中の湿気に含まれている”何か”があり、夜の闇は闇で、闇そのものが何かを含んでいる印象は強いです。夜は自然の音はもっと響きを増します。
日夜を通してずっとあり続ける不可視の気配を肌身で感じていたと思います。これは死生観やあの世観にもつながっていきます。

話が飛びますが、京都の夏の蒸し暑さ。今はエアコンがありますけど、昼夜関係なく、ずっと蒸し暑いです。空気が乾燥していたら日陰に入ると涼しいですが、蒸し暑さは日なたも日陰も夜も関係ありません。ずっと蒸し暑いです。京都の蒸し暑さは内側からじわっとくるようなこもった蒸し暑さです。ずっとまとわりつきます。見えないのですけど、空気中が密になっているのを感じます。

うしろで連綿とつながって流れている”存在”

大気に溶け込む虫の音や湿気がないところでは、夜の闇は対比的になります。日中の日光、夜の暗闇。相反する二つなので、二元論になりやすいです。人にとって過ごしやすい日中が神、善となりやすく、何も見えない暗闇では人は恐れるしかなく、それは悪魔、悪とみなされやすいです。

日本が八百万の神々の国と言われたり、他国の宗教をごちゃ混ぜにして染まらないのは、表面的にはいろいろあってもそのうしろでは、変わらずにずっと流れている生命感を自然から感じ取ってきたからではないでしょうか?

科学の発達や西洋文化の流入により、現代日本はそれらがないがしろにされてきました。それでも日本人の意識の奥深くにはまだ眠っています。本来の日本人の宗教観はそんな自然観に根ざしているのではないかと思います。今一度それを思い出し、自分らのパワーの源とすべきではないでしょうか?

自我の進化が問われている

季節の移り変わりと同じように、自我も変化していきます。エゴ意識を自分だと思っている人がまだ多いですが、エゴ意識の支配から卒業し、もっと大きな自我意識に目覚めることが求められています。

私の中の区別では、「エゴ」は一番小さい範囲の自我意識で、自分視点からしか物事が見れません。「自我」は自分を認識できる意識であり、他者と自分を分ける意識です。分けることができるので、他者視点にも立てます。「自己」は顕在意識も無意識も含めたもっと大きな自分と見ています。心理学などで使われる定義とは違っているかもしれませんが、私はそのように考えています。

長年の間、私たちは「分離」が元になっている世界にいました。まずは自分。「自我」と「他」という分離に目覚めます。最初はエゴ意識。自分視点からしか物事が見れません。が、そのうち自分と他者は違うのだと気づきます。

自我は自分自身の認識次第でその範囲が変えられます。
身体感覚でいえば、自分の皮膚を境界として、その肉体を自分だと思うこともできます。気の体、エネルギー体、オーラ、準静電解と呼び方はともかくとして、肉体のまわりにあるエネルギーの体までを自分と感ずることもできます。
あるいは、それをも超えて、自分の住んでいる家やまわりの環境や記憶に残っているものなどもひっくるめて自我とするのか、もっと範囲を広げて地球全体や宇宙や、現在過去未来のすべての時間も含めて自分とするのか、によって、その自我の大きさは変わってきます。それは個人の認識の違いです。

今、エゴから始まり、外に広がる方向性で書いていますが、本来は逆です。あらゆるところに偏在し、浸透しているエネルギー(意識)であるあなたが、今、分離した個体としての意識に閉じ込められています。

「自分」から自由になるほどに、本当の自分が現れる

自分と自分を取り巻くものとの関係性が変われば、自我の領域は変化します。自我はコンフォートゾーンでもありますので、それが広がるに従い、自分の許容範囲も広がります。「自分」にとらわれない自由さが問われます。

私はまだエゴの自分の意識が強いので、自分と「自分以外」との関係性を探っている段階です。子供の頃はその境界は良くも悪くも曖昧だったと思います。その良いところは取り戻したいです。私の場合はファンタジーや魔法っぽくなっていきそうです。
悪いところは、人のネガティブなエネルギーを自分ごととして取り込んでしまうこと。自分的にはここはだいぶんクリアされてます。自分軸が備わって、抽象度が高くなると取り込まれにくくなくなります。

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