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①エホバの証人の集会にパンチパーマ父ちゃんが【その1】

志田わらびです。

エホバの証人のこどもだったころ
それでも
あんまり
悲壮な思い出ばかりでもないのは、
ほかでもない、父のおかげだと思います。

父は、家では、時に
怒鳴ったり暴力をふるったりの、
まさにザ・昭和の親父。
今でいうDVのモラハラおやじでした。
仕事は、自営業(会社員のとき上司をぶん殴ってから辞めたらしい)
不安定な収入で
基本 貧乏でした。
でも
時々お金を持つと
ケンタッキー爆買いとかしてくれました。
お寿司も行きました。
パチンコに行ったら段ボール箱満載に
お菓子を持って帰ってきてくれました。
そういうところは、今の私に遺伝していて
よく夫に叱られます。
(持っている金を全部使おうとする)

母が入信してから、
私たちこどもを連れて集会に出かけるので
父はそのたびに怒っていました。
食前のお祈りも
「やめんかい」というのに、
母はかたくなにお祈りをつづけるので、
食卓がひっくり返ったこともあります。
一番怒り狂ったのは
「こどもになにがあっても輸血はしない」
と断固母がゆずらなかったときです。
父は「そんなあほなことがあるか!」
と母を平手。
母も母で
「迫害には屈しません」と顔を腫らして
また集会に出かけます。
集会では
「迫害にあわれた志田さんのために、
不完全な志田さんのご主人のために神に祈りましょう」
父は迫害者という分類です。

その後、少しづつ、父が一緒に
集会にくるようになりました。
父がどんな心境だったのかは
分かりません。

清楚な服装に身を包み、物静かに
姿勢よく座っている人々の中に
パンチパーマ父ちゃん。
椅子にどかっと腰掛け、足を組み、
明らかに”世の人”の父。
みるからに柄が悪そうでした。

私は父が来てくれてうれしかったです。
弟はもっとうれしそうでした。
両親がけんかしているとき、
弟はいつも泣きじゃくっていたし、
小さかったから余計にかわいそうでした。

父が一緒にきてくれたら、
退屈な講演の時間がとても楽しくなりました。
講演の間は、
聖書を開いたり、ノートにメモを取ったりするのですが、
そのノートに、父は筆談で
「いちばん前の席のおじさんの頭 てっぺんぴかぴか」
「屁こきたい」
「このはんかち、めっちゃ臭い」
など、言って笑わせてきました。
笑いに耐え切れず、
私と弟は、ぶるぶるわなわな
悶えていました。ヾ(≧▽≦*)o

まじめに講演を聞かないでいると
父がいない場面では、外に連れ出されて
母に「ムチ」されるのですが、
父がいる前では母も手が出せません。
「あんたたちいい加減にしなさいよ」
あとから小言をいわれても、
「だってーおとうさんがーぎゃはは」
と言えました。
この、微妙な力加減が
なんとも、今思えば、
救われていたんだなー、とも思えます。

そんな、邪魔者が集会に来るようになって
他の信者の方は迷惑に思ったと・・・
思いきや・・・
父は、みなさんの輪の中に溶け込んで
談笑し、
最後には
「またご主人の経験、聞きたいですわ!
 とっても励まされました!」
と言われていました。(ナニヲハナシタンダ)

このような始まりで、
父も一緒にしばらく
聖書の勉強をしている期間がありました。
もちろん、その間も
酒とたばこはやめてなかったけど、
私たちの活動(集会やお祈り、研究)を
怒ったりしないで、
見守ってくれるようになりました。

次回以降のどこかへつづく👉👉👉
To be continued 😃😃😃

最後まで読んでくださって
ありがとうございました。


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