能登半島の災害支援を考えている方へ。私は東日本大震災の後にこんなことをやりました~小さな写真集に込めた想い~
こんにちは。紅猫堂です。
能登半島の災害状況をようやく画像で見ました。
「これ、本当に能登?」と思わず呟いてしまうほど、画面に映るのは13年前に見た宮城県沿岸部の光景そのものでした。崩落した国道、あちこちに横転して転がる車。
大雨で濁流となった川が建物を飲み込む様子は、忘れかけていたあのときのトラウマを呼び起こすのに十分でした。
震災時、私は仙台市の中心部にある雑居ビル6Fの職場にいました。水害の心配なかったものの揺れは物凄く、途端に停電となり、情報が遮断されました。社長の判断で家が近い者は16時頃に退社を命じられたので徒歩で40分ほどの自宅に帰りました。途中でコンビニに寄ったら、薄暗い店内で店長らしき人が大声で「いまレジ使えないんで!全部100円でいいから現金で買ってってください!」と呼びかけの真っ最中。せっかくなので目の前にあった単3乾電池(4本入り)とビスケットを200円で購入。次第に雲が厚くなり雪が降って来ました。自分が何も知らずに家までの道を歩いている時、沿岸部で何が起こっていたかを想像するだけで、今も震えが止まらなくなります。
自転車で故郷(石巻)へ向かう
震災発生から1週間後、私は石巻に住む両親の安否確認のため仙台市から石巻市まで片道50キロを超える道のりを自転車(ママチャリ)で往復しました。仙台を出発してから石巻に着くまでに目にした光景は、現在の能登半島と悲しいほど重なります。両親の無事を確かめ、故郷の無残な姿を目の当たりにした衝撃と想いを写真に収めて仙台に戻りました。
プロジェクトの立ち上げ
津波被害の無かった仙台市の中心部では、新聞社が発行した震災関連書籍が横積みになって売られていました。その様子に何とも言えない違和感を覚えた私は、職場仲間に力を貸りて「みやぎの思い出プロジェクト」を立ち上げたのです。プロジェクトでは、被災前の宮城の美しい姿を写真に収めた小さな写真集を制作することを目標に、資金は協賛金を募り、写真は地元に住む方々から公募で集めました。現在のようなクラウドファンディングはまだ確立していない時代でしたので、全て手探りで行われました。ありがたいことに3195点もの写真が寄せられ、その中から約300点を掲載しました。
写真の選別からキャプションの編集、校正まで全ての作業は当時勤めていた小さな出版社員だけの手で行われました。写真集用の紙も、被災して大打撃を受けた日本製紙石巻工場から奇跡的に助かったものを分けていただくことになり、印刷も石巻の印刷会社に依頼しました。
写真集の名前は社長がつけました。「なんか聞いた事ありますね」「昔の大河ドラマに似たようなのありませんでした?」「いいんだよこれで」和気あいあいとした雰囲気の中、A4変形の小さな写真集はだんだんと形になっていきました。
出来上がった写真集は、宮城県沿岸部の全15市町で被災された方に、合計32,300部を無償配布しました。写真集に収められたのは豊かな自然、活気あふれる街並み、そして人々の笑顔だけ。震災写真は一枚も入っていません。失われた日常への郷愁を呼び覚まし、心の復興を願って。
仮設住宅を訪ねたときには一部から「まだ見たくない」という声もありましたが、多くの人々が喜んでくれました。「キレイだったねー。そうだねー、こんなだったよねー」「あらー、まとめるの大変だったでしょうにー」「ありがとうねぇ」「あらっ!なんだべ流された私の家が写ってる!」と涙を流す人もいました。
その後、多くの方々が「被災地」に来てくれましたが、そのとき目にした光景は瓦礫と緑が根こそぎ剥ぎ取られた褐色の世界でした。被災前の光景とは似ても似つかない風景が広がるさまを前にして、ボランティアの方を含め初めた皆さんが同じことを言っていました。
「被災地に何度も来ているけど、私たちは被災前の景色を知らないんです。被災前の景色を見てみなかった」と。
写真集は2011年10月に完成し、同年12月には販売終了となりました。ご覧になりたいと思った方は図書館で探してみてください。国立国会図書館の他、全国の自治体の公立図書館に寄贈してあります。
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