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要は怖がりってこと!

「書きたい」が「書かなきゃ」になって「書いてよかった」に変わっていく一連の流れのことを、創作意欲の人生と呼んでいます。そのサイクルを絶えず回していくことが私の幸せで、それが滞りなく回せる以上の幸福は今のところない。

だからこれからの四年間、私は多くの友達を無くしてしまうと思う。人間関係を良好に保つための最低限の交流すら絶って創作にのめり込んでいたい、という欲求が日に日に強くなっていくのを覚える。
いつしかインプットすら忘れて、ただ自分の脳が空になるまでキーボードを叩き続ける化け物になってしまいそう。
もし私が完全に変わってしまったら殺してくれ、と頼むキャラクターの気持ちが痛いほどわかる。進んで孤独に成ろうとしているが、一人きりで生きていけるほど強くない。既存の、もう出来上がっている人との交流でギリギリだ。

それはそれとして、創作の糧として「ちゃんとした」恋愛がしたい。なんの躊躇いもなく下の名前を呼んでみたい。身体的なスキンシップは苦手だけど、頭を撫でられたい、とは常々思っている。だがこれは認められたい、の延長線な気がして、恋人に求めるものではないのかもしれない。
そもそも創作の糧として恋人を求めている以上、相手に誠実に向き合うつもりがはなから無いということで。これは毎年短冊で一枚は見る、「大金持ちになりたい!」レベルの非現実的な願い。そうやって言って減るもんはないし、いいよね。

話は少し変わるが、恋人といい友人といい、人の名前を呼ぶことにかなりの抵抗感がある。幼馴染と家族以外の名前を呼ぶのに、いまだに一瞬躊躇してしまう。家族ですら時折躊躇う。
さん付けで呼びましょう、というはじめは誰もが反発していた小学校のルールが、当時心地よかった記憶がある。距離を一気に縮められるような気がして、呼ぶのも呼ばれるのもむず痒い。突然裸を見せられたような。驚いて、恥ずかしくなる。
名前というものに、意味を見出しすぎているのかもしれない。ただの個体を識別するための記号だと言い聞かせても、その名前の響きに、文字の一画一画に、私は意味を見出そうとしてしまう。
名前はパーソナルなもので、一番初めに与えられるアイデンティティで、安易に踏み込んではいけない、けれど一番露出している過去だ。

その点、あだ名というのはありがたい。悪意があるものは嫌いだが。その人のパーソナルを表しつつ、いい塩梅に隠してある。パーソナルが服を着ている。
店員のあだ名が名札になっているタイプの店がある。そういう店の方が、なんだか居心地がいい。名札に本名が書いてあると、どうにもそれを目で追ってしまう。それは本人の知り得ぬところでその人を暴いてしまっているようで、軽く自己嫌悪に陥ってしまう。

「暴きたい」は「暴かなきゃ」に変わり得るが、「暴いてよかった」には決して変わらない。「暴いてよかった」に変わって、それが一連のサイクルになった瞬間、それは暴力になる。

暴く力と書いて暴力。暴力を、私は忌避しすぎている。

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