見出し画像

遺書、未遂。(上)

これはメンタルが終わっている時、江ノ島に一人で行った時の手記です。
個人名や具体的な駅名が出ている箇所や誤字は改変、変換、削除、黒塗り処理をし、掲載します。
ちなみにまあまあ長いので続きは次の記事で出します。
遺書、未遂。(下)はこちらから。


単独、江ノ島に行こうとしている。
なぜかちゃんとしなきゃいけないと思って、ちゃんとメイクをして、ちゃんとした(?)服を着て、もらった鞄で出かけている。
鏡の前で笑えなかった。
追われてるみたいだ。
████の音楽しか聞きたくない。
どうしてか、こういう時の自分の行動力は異常だ。怖い。
海を見れば楽になれる、と漠然と思っている。
そんなわけはないのに、こうやって文字を書いていると何か生産している気になって良い。
これを家で出来ないものか、いや、出来ない。
移動し続けないと死んでしまう。
死のうとしている?幸せの青い鳥を探すようなものだ。多分私が求めているものは江ノ島なんかになくて、きっと███に行けば会えるあの子で、明日になれば見られる彼なんだろう。彼らに勇気を出して私の隣にいてくれと頼めるだけの強かさが、弱さを強さに変える強さがないから、ノートを携えて一人で海を見に行こうとしている。
極論、海でなくともいいのだけれど。
遠くに、非日常に行ければそれで。
擬似的な自殺。一人旅は自殺の類語だ。
一時期、日記を書いていたことがある。あの時は、夢を追う自分に酔っていた。落ちて、覚めた。酔いから冷めて、自分を心底、気持ち悪いと思った。
今、ひどい顔をしている。
駄目な文しか書けない。指が痛いから、ギターは、ピアノは自傷行為だと思っていた。でも、違った。楽しい気分のスパイス程度の痛みでしかなかった。
スパイスではトべない。
海を見に行こう。

「やっぱやめた」が出来ないところまで来ることができた。
思えばずっとそうだった。決断力がないから、勢いだけで「やっぱやめた」ができないところまで行ってしまって、緩やかに後悔をしながら過ごしてきた。
後悔はしていない、むしろ私のそうした選択は正解だった、と今なら言える。ただ、やらない後悔だけで終わっておけばよかったと思うこともあった。憧れてしまったものはしょうがない。
見られてるみたい。自分より大きな存在に、子供だねって笑われてるみたいで不快だ。
睡眠欲が体を重くしている。ただ、眠りたいだけだ。
それが死の香りだというのなら、私は今、これに身を預けてずっと眠っていたい。
あなたの底より私の底は、ずっと浅いものなんだろう。
それに救われた人間は、それに報いようとする。私は結局、文学に救われている。文学を「する」ことで救われている。何かを創ることでしか自分を保っていられない。
「ディズニー、彼氏と行けばいいじゃん!」という何気ない、ごく普通の言葉に酷く傷ついてしまったのはなぜだ。特別な存在を特別に扱うことがまるで出来ていない、自分への憤りか。
15分ほど電車の中で昼寝をした。頭が少しスッキリしたような気がする。相変わらず落ちてはいるが、Twitterを少しだけ眺めることができた。
改めて自分は何をしているんだろうかと思ってしまったが、正気に戻ってしまったら多分引き返してしまう。
「やっぱやめた」をしてしまう。進むしかないのだ、だってそうやって生きてきたから。
そうすれば、褒められたから。
本当の意味で強くなれなかった。知らないところまで来た。どこまで行けるんだろう。
私は独りだ。

緑が好きだと再確認した。好きなものを好きと言うのに、「許し」が必要になったのはいつからだろう。
次止まる駅で、一度乗り換えが必要。
写真を残そう。なんか、残しておかなきゃ行けないような、そんな気がする。理屈はない。100直感でしか動いてない。目的地に近づく度に頭が冴えていくような気がする。目が覚めていく。それは現実じゃなく、夢の中で自由に体を動かしているような、支離滅裂で根拠なんてない無節操な動き。
知らない街が車窓から見える。

江ノ島を、ただ何も考えないように歩いた。自然が私の居場所だと悟った。私は草木水がないと生きてゆけない。足を濡らした。初めは裸足で波に触れた。面倒になって、最後は靴のまま波に入った。
不快だった。でも冷たさが気持ちよかった。海の匂いがした。それは死の匂いに似ていた。
命がいた。潮溜りに、命が。
足元の不快さが「生」なのかもしれない。
波から離れる時、引き止められるように私の足元を波がさらった。死が手招いているようで、心地よい開放感と、えも言われぬ恐怖があった。自分が想像できないほど大きなものに攫われていく恐ろしさ、そして甘美。
なんというか、まとめとしては結局何もできなかったってことだけだろう。
帰るつもりがあんまりなかったのも事実だし、あの衝動は死とか逃げとかに突き動かされて行われたものでしかないのだけれども、それはそれとしてSNSに写真を上げて――それは違うか。江ノ島に行った、という記録を残そうという意思が自分にあったということはすなわち、誰しもに忘れ去られるという形での「死」は望んでいなかったということであり、「生まれてこなきゃよかった」とは微塵も思っていないんだなという、生に対するある種の賛同、人間って素晴らしいんだという人間讃歌的な側面が私にはある、ということなのだろうか。
生きられた、この世に生を受けられてよかった、とは思っている。
だがこの有り余る苦しみに絶望してもいる。海の波が白く打たれた時、あれを砕けると初めて表現した人に感動した。
夕方、日が沈んだらもう一度あの海岸へ行こう。
足が痛い。生きている。生きてしまっている。
明日の君が生きる理由になってしまっている!
とはいえ別に今も気持ちは落ちたままだし、あの海の波は一瞬しか私の心を上げてはくれなかったけど、あの、今まで感じたことのないような受動的な死は、ある種母性や父性に似ていて、母なる大地、母なる海があるのなら、父なる大地、父なる海もあるんじゃないか、と思ってしまったんだ。結局、誰かに包み込んで欲しかっただけなのだろう。頭を撫でて、隣を歩いて、優しく微笑みかけて欲しかっただけなのだろう。一人で懸命に歩いているときは、そんなずっと足りなかったものに目を向ける余裕はなかった。けれどふと一度、間違ってはいないだろうかと立ち止まった瞬間、それは私に襲いかかった。それを、それより大きなもので圧倒してしまいたかった。
緑が好きだ。田舎は嫌いだ。それと同じくらい、都会が嫌いだ。私の故郷はどこだ。海の中に、さらに言えば水の中にあるのかもしれない。
深い水底に手をついた時の、あの圧迫感を、もう一度。
水圧で潰されてしまいたいのだ。
現実世界での圧を、水圧で押し潰してしまいたい。
比喩的な死。Die。


よろしければお願いします、お返しできるだけの物を書き続けます