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短編Ⅸ | YOU 2/5

俺と仔猫は、ゴールデンウィーク前の平日に中禅寺湖に行くことにした。

東武日光駅まで電車で移動し、駅前でレンタカーを借りて、中禅寺湖を目指す。そして湖畔で一泊し、翌日は日光東照宮に寄ってから帰京する。

当日は、とても良い天気になった。
吉祥寺から電車で出発し、予定通り東武日光駅前でレンタカーを借りると、仔猫がハンドルを握った。
「運転できるのか」と俺が訊くと、「私の田舎は、車がないと暮らせないもの。雪の山道も普通に走れるよ」と仔猫は答えて、サングラスをかけた。仔猫の意外な一面を見た気がした。

車を走らせながら、仔猫が言った。

「…何か、音楽かけて。マスターが好きなのがいい」

「おまえが好きなヤツじゃなくていいのか」

「…私だけが好きな曲は、私一人で聴けばいいの。マスターが好きな曲を二人で聴きたいの」

俺は、自分のスマホをカーオーディオに同期させて、仔猫が好きな『真夏の果実』を流した。仔猫はご機嫌で口ずさみ、次の曲も口ずさみ、小さく笑った後、「あ、これも好き」と声を上げた。

「『YOU』か」

「…うん。これを聴くとね、マスターのイメージとピッタリだなって思うの。歌詞がっていうんじゃなくて、なんか、雰囲気が」

「そうか?自分では、よくわからないな」

「…ふふ。マスターがよく歌ってるからかな。ご飯を作りながら」

「え、そうなのか。全然意識してなかった」

「…本当?たまに踊りながら歌ってるよ?」

「昔、カラオケでよく歌ってたからな」

「…ええー、それ、私も聴いてみたい」

「絶対に嫌だ」

運転するのが楽しいのか、初めての旅行が嬉しいのか、それとも、中禅寺湖を訪れることに緊張しているのか、あるいはその全部か。仔猫はいつになくはしゃぎ、よくしゃべった。

第二いろは坂ではつづら折りの急な登り道が延々と続いたが、仔猫は何の苦もなく車を走らせた。そして中禅寺湖畔のホテルに車を停めてチェックインを済ませ、部屋で少し寛いだあと、貸しボート屋まで徒歩で向かった。「スワンボートには乗りたくない」という仔猫の要望に従って、二人乗りの手漕ぎボートを事前に予約しておいた。

「大丈夫か」

ボート乗り場で、仔猫は明らかに緊張して、顔をこわばらせていた。仔猫はゆっくりと息を吸い、ゆっくりと吐き出して、「うん、大丈夫」と答えると、俺より先にボートに乗り込んだ。

「あまり遠くまで行かなくていいの。岸からそこそこ、離れたところまで行ってくれれば」

仔猫は身体を固く縮こませながら、ボートを漕ぐ俺にそう言った。やはり、怖いのだろう。俺はうなずき、しばらく漕ぎ続けて、岸から五百メートルほど離れた位置でボートを停めた。
そこで仔猫は、手に持っていた紙袋から、小さな花束を取り出した。それは白いマーガレットの花束だった。仔猫はそれを自分の顔に寄せて目を閉じた後、水面にそっと落とした。花束はしばらく水面に浮かんでいたが、やがて散り散りにほどけ、ゆっくりと波間に揺蕩たゆたった。仔猫はボートの縁に手をかけて、その様子をじっと眺めていた。

…仔猫は発作的に、湖に身を投げてしまうのではないか。
俺はそんな不安を抱きながら、仔猫をずっと見守っていた。

その夜半。
ふと目を覚ますと、浴衣姿の仔猫が窓辺に立って、カーテンの隙間から外を眺めていた。

…眠れないのか?

俺もベッドから出て、仔猫の斜め後ろに立った。カーテンの隙間からは、満月に照らされた中禅寺湖が見えた。

「綺麗だな」

俺の言葉に、仔猫は黙ったまま、小さく頷いた。そして、しばらく黙り込んだ後、中禅寺湖を見つめたまま、小さな声で言った。

「…ねえ、マスター。お願いがあるの」

「なんだ」

「…私、赤ちゃんが欲しい」

「………え?」

「…妹の生まれ変わりを、産みたい。妹の生まれ変わりを産んで、抱っこしたい」

仔猫の突然の願いに、俺は激しく動揺した。

…子ども?

俺はこれまで、家庭を持ちたいなんて、一度も考えたことがない。これからも仔猫と一緒にいたいとは思っているが、それは、今の関係がずっと続けばいいと、漠然と願っているだけだ。
家庭を持つつもりもないのに、ましてや、子どもなんて。

俺は即座に、仔猫の前回の生理がいつ終わったのかを思い出し、排卵日を推測した。そしてひどく緊張しながら、恐る恐る、仔猫に訊ねた。

「……今か?」

「…駄目?」

仔猫が振り返って、俺を見上げた。その切羽詰まった眼を見た時、俺は、仔猫の願いを拒絶するには受容するのと同等の覚悟を要すること、そして、ここで返答を言い淀めば俺たちの関係にヒビが入ってしまうことを、瞬時に理解した。それくらい、仔猫は抜き差しならない表情をしていた。

「わかった」

俺は、自分の動揺を仔猫に悟られないよう、努めて平静を保ちながら、即答した。そして、仔猫の斜め後ろに立ったまま、仔猫に気付かれないよう静かに深呼吸してから、仔猫のミルクティー色の長い髪をそっと掻き上げ、うなじから首筋、そして耳元までゆっくりと唇を這わせた。仔猫が何度か切なげな吐息をもらし、身体を小さくよじらせた。仔猫から浴衣が滑り落ち、白い柔肌が月の光を集めて、暗がりの中に浮かび上がった。俺はその小さくて美しい生き物を後ろから抱きしめた。

…落ち着いて、いつもの手順で進めろ。いつもと違うのは、避妊具をつけないことだけだ。
俺は自分にそう言い聞かせながらも、仔猫が俺の動揺に感づいてしまうのではないかと、最後まで、気が気でなかった。

中禅寺湖から戻って二週間が経った頃。
自宅のリビングの扉を細く開け、その隙間から顔を覗かせながら、仔猫が俺に小さく言った。

「…マスター。赤ちゃん、駄目だった」

その時、俺はダイニングテーブルでネットニュースをチェックしながらコーヒーを啜っていたが、仔猫の言葉に対し、とっさに「そうか、それは残念だったな」と返事した。そして、自分の声音に深い安堵の色が滲んでいたことに気付き、あからさまに狼狽うろたえた。

仔猫はそんな俺をいつもの眼差しで見つめていたが、そのまま静かにリビングの扉を閉め、寝室へと去って行った。


(つづく)


サザンオールスターズ『YOU』


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