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期待、評価、そして葛藤

中学のサッカー仲間で、同級生と、一学年下の2人と昨日、久しぶりに会った時にでてきた話し。

同級生「今でも覚えているのが、試合中、シュート外した時、お前(筆者)の親が、

はぁぁーっ

って俺に聞こえるくらい大きなため息ついたんだよね。その時に、『ウッセーな!』って言い返したの覚えてる?ついでに
息子(筆者)は全然活躍してないだろ!』って言ったことも」←余分だわ!

もちろん全然覚えていないのだが、その当時、その同級生は異次元のレベルだと思うほどに上手かった。
おそらく、私が一緒のチームでプレーした選手の中でも一番上手いだろう。
試合の勝敗は彼の活躍次第で決まると言っても過言ではない、それは自分たちも相手チームも感じていたので、彼にボールを集められれば自分たちが勝ち、彼に集めさせないように上手くやった対戦相手が勝つ、というような。とはいうものの、他にもバランスよく選手が揃っていたので、大会では好成績を残していたし、そのおかげもあって高校はサッカー推薦で入ることができた。ありがたや、ありがたや。

周りの人たちは、彼に任せれば勝てる、彼がなんとかしてくれる、なんてことは口には出さないものの、その眼差しや動きを見れば一目瞭然で、彼も感じていたことはわかっていた。
もちろん完璧ではないし、ミスはするはずだが、期待値が高いのだ。一挙手一投足すべてに期待がこもる。
自分がなす成功と彼がなす成功、自分がする失敗と彼がする失敗は、どちらも全体に影響する度合いは彼の方が大きい。
周りからしてみれば、もっと上手くなってもらいたい、もっとできるようなるはずだ、という自然な感情としての期待をかけるが、一方で上手くいかないことがあれば、彼が上手くいかないことが残念だ、という自分事のような悔しい気持ちにもなってしまう。
期待をかけられる側としては、なんで自分がしたミスで勝手に悔しく、悲しく感じてるの?なんか自分が悪いみたいで嫌!となるのも当然だ。

期待と評価は、与え手と受け手の間でしばしばズレが生じる
それは特に家族間、職場などの組織間で生じるように思う。


期待や評価は受け手にとってはすべて力に変えられる、と簡単にいうが、おそらく期待や評価にはあるべき姿、あるべきプロセスが含まれている場合があって、あなたが好きなように、自由に振る舞い、その対象に向き合う中で私たちにも素晴らしい結果や経験をもたらせてくれればいいのよ、というような期待はない。
そのため、期待を感じるということは、認められていると感じる一方で、理想像にはめられていると感じることもある。

自分にかけられる期待と評価、誰かにかける期待と評価は、他者との関係性の中では必ず誰もが持つもので、無いと他者との関係を絶ってしまう
期待と評価に疲れたり、また、それに取り憑かれて自分自身を見失ったり、意外と根深く人間関係にまとわりつく。

では、どうすればいいのか。
期待と評価の土台として、ここにいるだけでいいんだよという受容があるといいのではないか、と思う。
まぁ、そこらへんの話しはまた、誰かと話した時のエピソードで考えるとしよう。

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