『内面世界を視てもらう』 〜優しさと不思議さと ゆりこリウムさん〜
前段
きっと言葉ではこの体験を伝えきれない。嬉しい悔しさの中で筆を取る。
不思議さと自然さ、気づき、腑に落ち、じんわりと包まれて
体験した ”深さや濃さ”は, 箇条書きにできないまま身体の中に染み込んでいく。
これは私という存在の内に見出された風景や出来事の話。
万華鏡を覗き込むように、存在の内側を視ることができたなら。
そんな空想が現実になった驚きと、穏やかな語り口に安らぎ、ゆるんでいく心。
語られる描写は、懐かしい風景を思い出すような、馴染みのある物語。
仕事、色々な活動や人間関係。ヒントを見出したいテーマで質問を交わす中で、
「日常生活」と「おとぎ話のように語られるその世界」はつながりを増していく。
俊足で強力な動物も素敵だけれど、もしも自分が自然の中の草花だとしたら、根を伸ばし、花を咲かせることをさせてあげていい。
そんな抽象的な要素が具体的な日々のイメージとつながる時、気づけばその原風景と実際の人生は優しく重なり合う。
それは己自身であり、向かう場所であり、頼もしい伴走者。
豊かで、一口には語れないそんな体験に、ただただ、感謝。
本論: 内面世界 〜私の場合〜
青々としげる深い森。その中のまあるい湖。
精霊が集い、動物達が訪れ、また去っていく。
水辺には湖なのにイルカが遊びに来たり、ここは少し幻想的な場所。
四季が変わるように、何者かが訪れ、あるいはまた旅立つ。
心を休め、英気を養う。自分を見つめ直し、赦しを受け取る。
そんな場なのかもしれない。
その湖の真ん中に、どうやら一つの花がある。
花自体はまだもやがかかってはっきりとは見えないけれど、
それはやがて晴れていくのだろう。
その花は、あるいは葉は、声とも分からない形で語りかける。
静かに揺れ、葉がそよぐ。そのゆらぎが空間を伝うのかもしれない。
この世界を耕していくために、根を張ろう。
無理やり山に登るわけでもなく、
囲む柵や壁があるわけでもない。
それはそこに存在している場所で、
どこからという境目が明確にあるわけではない。
まわりの空気や動物たち、虫、自然との交流で受けとった
栄養分は茎を下り、地中に行き渡っていく。
それを受けとった惑星が育っていく。
まるでお腹の中の赤子のように。
その葉や茎、そしてまだ見ぬ花は、
動物が野をかけ咆哮するように 明確な強さや形を示すわけではない。
それでいてその場に流れる空気に特有の濃さをもたらしていく。
雨が葉に落ち、茎や根を通り地中へと。
そして地下水や川になり、そしてどこかで蒸発して空へと帰っていく。
めぐっていることそれ自体が大切なことで、
”どこまでがこの空間と呼べるのか”という境界は
あまり重要ではないのかもしれない。
花は群集しすぎても息苦しくなってしまう。
自然の豊かさには余白も必要だ。
近ければ近いほどいいわけでも、
高ければ高いほどいいわけでもない。
地上に伸びる茎と、地下にはる根と
赤子のように育つ惑星と。
めぐる めぐり 育まれる世界。
調和・harmony。
バランス、距離感、グラデーション。
昼と夜、四季、太陽と月。
引き合い、まわりあう星々のように。
ゆるやかな流れの中で、
変わりゆくもの、変わらないもの。
そして最後に。
浮かび上がったままの色で咲いて良いということ。
青いネモフィラを探す人もいれば、
向日葵を喜ぶ人もいる。
その全てを映し出せないかと、
透明な花になろうとしていることがある。
自分ですら気づかないうちに。
自分の色で咲いても良いのだということ。
未完成でも、まざりあった色でも。
とどめることなく、放っていくこと。発していくこと。
そのために立ち返れる場所。
己自身であり、連れてきていただいた場所。
大切にしたい世界。
ゆりこリウムさん、素敵な体験と時間をありがとうございました。
後段 〜自分の内面世界を視てみたい方へ〜
自分という存在がどんな世界を内包しているか、どうやら初対面でも話す前から視えている様子のゆりこリウムさん。
話しながら、より目を凝らして風景の細部をたどっていくように感じとっていく。
優しく穏やかな声にやすらぎながら、
”そうそう、まさに"、"なぜこんなにも深く私のことを知っているのだろう?” 不思議さと共に、日々の生き方の道しるべとなる時間。
そして純粋にわくわくする。
今は他の方にはどんな内面の世界や物語があるのだろう、とワクワクしている自分がいる。
自分の内なる世界を見てみたい方は、
ゆりこリウムさんの公式LINEまで。
不思議で、優しく、自分をより知ることのできるとても贅沢な時間。
出会えたこの機会に心よりの感謝を込めて。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?