こころマンホール*1  コバルト短編小説新人賞「もう一歩」選出作品

鈴木はこの一年、いつも下を向いて生きている。
しかし悪くはないと彼は感じていた。
四六時中地面を見つめる彼の世界は、それなりに豊かに広がっているからだ。

 7月初旬。蒸し暑い金曜夜の居酒屋は混雑し、広くはない店内にざわめきが飛び交っていた。鈴木は大久保さんと小さいテーブル席にいた。大久保さんはメニュー表を楽しそうに眺めている。
「ふーん。ここ初めて入ったけど、割と手の込んでそうなつまみが結構あるな。今日は二人だからいろんな種類を頼もう。あ、お前もビールでいいよな?」
「はい、大丈夫です」
二人はまだ互いの名前も知らない。
ついさっきまで、鈴木はその日の大学の講義を終え、キャンパスから少し離れた公園をある物を探しながら歩いていた。公園はそれなりの広さがあるが、遊具の点検をしている業者と、犬を散歩させている婦人と、鈴木ぐらいしかいなかった。目当てのものはここら辺にはないし、そろそろ帰ろうかと公園を出たときに、この豪快な大久保さんにいきなり声を掛けられ、公園近くの居酒屋に連れてこられたのである。大久保さんは二十代後半くらいのたくましい人で、自衛隊員や消防官ではないかと思われた。ひょろひょろとモヤシみたいな体つきの鈴木と並ぶと大久保さんの鍛えられた体が一層引き立つ。
大久保さんはビールを一気に飲み干して、うまそうに喉を鳴らした。明太子のポテトサラダに箸を伸ばす。
「やっぱり仕事終わりのビールは最高だな。たまたま君みたいな断らなそうな青年が見つかって良かった。酒は誰かと飲んだ方がうまい」
大久保さんはそれから、人生の先輩らしい金言や自身の武勇伝を鈴木に聞かせていたが、やがて今の仕事と恋人の愚痴になった。鈴木は自分の気質が相手の話を盛り上げることは不得手であると自覚していたため、話に熱心に耳を傾け、丁寧に相槌を打った。大久保さんの話し方と声は張りがあって、ただの愚痴でもなぜだか面白く聞こえる。聞いている鈴木もだんだんと陽気な気持ちになっていった。似たような声を知っている。ふと別の大学に通う親友の顔が浮かんだ。
「そういえば、珍しいと思ったんだ。君はあの公園で何をしていたんだ」
「まだ見ぬ新しいマンホールを探していたのです」
「マンホールって、路上で見かけるあの?」
「そうです、あのマンホールです」
「へえ」
会話が途切れてしまった。いつものことだ。大久保さんは三杯目のビールを一口飲んで、それからまた愚痴を笑い話のようにこぼし始めた。
鈴木と大久保さんが互いの名前を知ってから一時間が経った。
「ところで、君はさっきからずっと顔をあげないな。どうかしたのか」
公園で出会ってから今まで、鈴木は一度も大久保さんの顔を見ていない。
「すみません。私は前を向けないのです」
会話が途切れてしまった。いつものことだ。
少し間が空いて、大久保さんは鈴木の肩を叩いた。
「そうか、そうか。確かに君は少し暗そうだから、いろいろあるよな。でも、人生は短距離走じゃない。君は君のペースで歩いて行けばいい」
大久保さんは鈴木自身のこころの問題だと解釈したらしい。
確かに鈴木の今までの人生は波瀾万丈だった。特に去年両親を病気で続けて亡くし、遺産相続の際に普段は善人の叔父に裏切られて途方に暮れた時は辛かった。あのときは八方塞がりに思えた。しかし鈴木が前を向けないのはこの辛い出来事が原因ではない。その時に平行して起こった出来事の後に、物理的に、首を動かすことができなくなったのだ。
「医者に診て貰った方がいいんじゃないか」
『首が動かなくて前を向けない』と説明すると、大久保さんだけでなく、周りの誰もが病院に行くように勧めてきた。鈴木も当初は大変取り乱して、何度も病院に通った。初めは整形外科に、そこが駄目なら次は内科へ、やっぱり整形外科に戻って、あちこち回った。しかし何回診て貰っても、どの医者に見て貰っても、皆ただ同じように困惑するだけだった。最後に診察した医者の淡々とした声がよみがえってきた。

***

「何回検査をしても、曲がっている箇所の骨以外には悪いところが見つからないのです。このような方は近くの部位の骨や関節にも問題があり、他の症状が出てくることが通常なのです。あなたには頭痛や手足のしびれなども全くない。ただ首が回らないだけ。こんな症状は初めて見ました。この症状のメカニズムも分からない、よって治療方法も見つけられないのです。申し訳ない」

***

大久保さんはうーんと唸った。
「原因不明の難病か。首以外は全く問題がないなんて、確かに聞いたことがない。なんでそうなったのかこころ当たりはあるのかい?」
鈴木は迷わずに答える。
「失恋です」
つまみに手を伸ばした大久保さんの手が止まる。

《続く》

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