知的謙遜の真の意味

よくいわれる知的謙遜というのは、他人に対して「私はそれほど知りません」みたいな態度をとるwwwことだけど、そんなものなんかでは断じてなく、(それは無知蒙昧な人間による自らの立場を相対的に上げたいがための都合の良い解釈である。知識ある人もバカな私もどうせ無知なんだから同じじゃん!っていうw)

そういう人間の下らん序列的なこととかじゃなくて、知識とか知恵とか因果関係ってのは、どこまでいっても真に起こっていることの説明の数%くらいでしかないってことをどれくらい体得して物を言っているか?ということなの。

実際に世界で起きているのは、多数の要素、しかも次元の異なる様々なものが合わさって現象が起こるのであって、そこから、さらに解釈のズレだとか誤解だとか歪みも起こっており、そもそも認知とは何か?とかも含め、そういう捉えどころがない極めて難しい「現象」というものによく生きる上でなんとか対処するために、便宜的に、影響力の大きい要素だけを抜き出して、法則化し、誤差を許容して、なんとか利用しているというのが実像である。

だから知的謙遜がある人ほど、因果関係を説明するときにそれが成立する範囲を限定しようとする。同時にギリギリまで言い切ることでしっかりと発言に価値をもたらす。

それは決して因果関係からの逃げでもなく、解明欲求からの逃げでもなく、誰かからの評価や責任逃れとしてでもなく、だ。

「~~の場合に限ってですが~~になります」

「~~の間では~~といわれています」

「~~以外ですと、~~になる可能性は90%くらいあります」

「~~という目的ですと、~~が最適な判断になります」

こういう感じ。言い切るけど成立条件を明確にする。分かりましたか?

知的謙遜とか、そういう「上位貶め系」の言葉って、プライドだけが肥大したゴミ人間ほど飛びつきやすいから気を付けてね。


参考:同じような醜い動機から歴史上起こってきた現象

権力はなぜ集約するのか?ー序列意識を捻じ曲げるための道具として利用される「神」



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