真実の形式

至極本質的なものであればあるほど、人の安易な反応を許さない。

いたずらに「他人の心に引っかかる(=気を引く)」ことも言わず、かといって「おりこうさん」でもなく、マナーを守るでも守らないでもなく、善人でも悪人でもない、個人の「属性」も主張しない、その形式は預言や聖典にも似ている。

それで何が起こるかといえば、世間的な意味での、支持もされず、反論もされず、引用もされず、応援もされない(笑)あるとすれば信仰?くらいか?それでさえ意訳されたものが対象になっていることがほとんどで、原本そのものは信仰さえ取り付く島がない。

ただ不思議な印象を残し、読んだ人の心の奥に残り続け、いつかの日に

「あ~~なんか昔読んだあれ、、なんだっけ、そういうのあったなー」と思い出される。

思い出されるそのときには、自分が考えたことだったのか、誰かの記事を見たのかさえ、曖昧になっていることが多いけれども、一つだけ確実にいえるのは、その人の人生に影響があった、ということだ。

誰かに「分からされた」のでもなく、「踊らされた」のでもなく、「自分の味方・代弁者だと思って指示した」のもなく、「目だったり人気があるから」でも「好きだったから」でもなく、それを思い出すとき、

言い換えれば、あらゆる世俗的都合でなく自分がそれを想起するとき、その事実そのものから、消去法的に「真実」が浮き彫りになるのである。

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