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そして私は24歳で高校球児と化した【ジャーヒストリーvol.2】

 「それで、お前はどうしたいの?」

 当時、新卒で就職したリクルート(現リクルートライフスタイル)という会社の上司から、よく言われた言葉だ。

 高校時代から、大好きだった高校野球の「心」を求めて、大学の時は毎日7時間アルバイトして貯めたお金で、北は北海道から南は沖縄まで4年間駆けまわった。
 毎年10校ほど長期取材し、チームと選手の心の成長をまとめた書籍を在学中に3冊自費出版した。
 だから、大学卒業後も、私は高校野球の記者として生きていくんだと思っていた。でも当時、寄稿をしていた野球雑誌の編集長から「一度社会に出た方が良い」と説得されて、泣く泣く就職活動をした。
 そこで内定をもらったのがリクルートだった。
 
 私が入社したころのリクルートは、ある意味でプロ野球のようでもあり、高校野球のような世界だった。完全なる実力主義でありながら、人を育てる文化があった。そんなところが私は好きだった。

 平日はリクルートの営業職として働きながら、週末は変わらずに野球の現場にいた。副業が認められている会社だったので、私は野球雑誌の取材をずっと続けていたのだ。
 それでも、最初から割り切って働けていたわけではない。入社して半年は、「不良(ふりょう)」だった。同期の社員たちともなじめず、営業結果も残せず、結果が出ない人間は必然的に孤立する。仕事が面白くなかったし、心のどこかで私には野球があると思っていた。

 だけど、グレながらも、ある時思った。高校野球の世界だったら、こんな時、どうするかな?

 今まで、たくさんの指導者に話を聞かせていただき、私なりに学んできたことがあった。きっと、高校野球の世界なら、こう考える。

「辞めることはいつでもできる。それなら、結果残してから辞めればいいんじゃない?」 

 そこで、私は目標を立てて、まずはそれを1つずつ達成することにした。高校野球にはペナルティの一つで、グラウンドに出てボールを触ることすらできず、数日間、掃除をしたり何かチームのためにできることをひたすら行うという風土がある。これは基本的には人が嫌がるようなことをコツコツやるということでもあるが、私もまずは、自分が大嫌いだった営業のロールプレイングを同じ部署にいた30人の先輩たち全員と始業前に毎朝行うことを自分の目標と課した。そもそも入社して半年、先輩に自分から話しかけたことすらなかった。

 それでも、先輩たちも後輩から頼まれたら断れないので、1カ月ほどで最初の目標を達成することができた。

 そのうち私は「ベスト20(トゥエンティー)」という賞を目指すことに決める。これは、年に1回、2000人の社員から営業上位成績者20名が選ばれ表彰されるというもの。この表彰式は、まるで紅白歌合戦なみの社内最大級の大イベント。選ばれし20名は、一人ひとりのプロモーションビデオも制作されるし、受賞できた要因を聞かれたインタビュー冊子も作られる。

 表彰式では、自分で選んだ登場曲に合わせてレッドカーペット(?)を歩き、ステージの上に立ち3分ほどの受賞スピーチをする。入社1年目の私はただぼんやり見ていたが、入社2年目の時、「私も来年絶対このステージに立ちたい!」と心の底から思った。

 2000人のうちのベスト20人。確率は1%。これは、約4000校のうち49校が出場できる甲子園の出場確率とほぼ一緒。私も、甲子園に出たい!いや、ベスト20(トゥエンティー)になりたい!そう決めた。

 そこからの1年間は、本気で毎日を過ごした。自分のことを営業マンというよりも「プロアスリート」だと考え、毎日朝5時に起きて6時に出社。始業は確か9時半頃だったので、毎朝3時間ほどその日の営業準備をした。(当時はまだ勤務時間の制約があまりなかった)

 朝、電車からおりて会社までの道のりは毎日同じ音楽を聴き続けて、モチベーションを高めた。

 営業エリアでは常に早歩き、むしろ小走り。1件飛び込んだら、次の1件までの30メートルほどの道のりで「超速PDCA」を頭の中で回す。先の飛び込みで何が良くて、何が悪かったか。野球選手が1打席ごとPDCAを回すように。
 また、営業スキルを磨くために、どんどん人に頼った。敏腕営業マンがフロアの東の部署にいると聞けば東へ。西の角の部署にいると聞けば西へ。プライドなんてゼロで、後輩にもたくさん質問したし、たくさん資料も共有してもらった。上手くなるためにできることは何でもしようと思った。

 そんなこんなで、次第に月間MVPなどの賞を定期的に獲るようになる。すべては高校野球の世界で頑張る球児をみてきたおかげ。そんな球児を育てた監督たちの説法のような有り難いお話のおかげ。

 そして入社3年目の春。私は憧れ続けたあのステージに立つことができた。私の登場曲は毎朝、出勤時に聞き続けたオレンジ・レンジのラヴ・パレード。

 そこ、甲子園の曲じゃないんかい!

 えぇ、それも想定内の突っ込みです。実はこの曲、意外に高校野球っぽい曲なのだ。「誰かがいるから強くなっていく」という歌詞があって、これは高校野球でも仲間がいるからチームは強くなることができるし、私も同じ組織で働く仲間がいたらから、苦しい時でも踏ん張ることができた。

 リクルートという会社は、営業会社だから確かに結果が全てだけど、でもやっぱりチーム力も大事にしていて、それでいて個人の成長のために上司が一生懸命向き合ってくれる会社だった。まさに高校野球。そしてプロ野球も足して2で割った感じ。

 入社3か月頃、「仕事を辞めたい」と初めてチームリーダーに言ったとき、彼は言った。

「ダメだ。今、営業の仕事も、野球の記者の仕事もどちらも頑張ることでお前のキャパが絶対に広がる。それはお前が将来、”お母さん”になった時に、絶対あの時やめなくてよかったって分かるぞ。仕事もする、子育てもする、好きなこともする。今、頑張れば、お前のキャパは確実に広がって、それが叶えられる母親になるぞ」

 ちょっとnote用にセリフを装飾したかもしれないが、そんなことをリーダーに言われた。もう13年も昔の話だが、今でも忘れない。

 それでも、まだ不良だった小娘の私はそれから数カ月後に、また辞めたいと部長に話したりしたのだが、結局1年間で3回辞めたいと言って、3回とも絶対にダメだと3人の上司から止められた。

 「それで、お前はどうしたいの?」

 それを問われるたびに、次第に私は契約期間の3年半やり切りたいと思うようになった。野球記者の仕事への専念はいつからだってスタートできる。

 そして、私は3年半の契約を終え、(契約を継続して働く選択肢もリクルートにはあった)以前から声をかけて頂いていた高校野球報道メディアの会社に入社する。まだ創立したばかりのこの会社で、初代編集長を10年間務めた。

 かつてリーダーに言われた「お母さんになった時にそれが分かる」というあの言葉は、昨年、育児休暇を終えて仕事復帰した時に、なんとなく分かった気がした。でも、やっぱり、初めての育児に翻弄される毎日。仕事と育児と、それから自分。この3本の軸でグラグラしていた中で、私は私に何度も何度も問いてみた。

「それで、私はどうしたいの?」

その答えは、問い続けた2020年の暮れ、やっと見えてきた気がする。



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