真夏の夜の夢~女装と純男のための完全女装現代語訳『男色大鑑<男の娘編>』その3


 「好色一代男」で知られる江戸時代の井原西鶴の代表作「男色大鑑」。タイトルの通り、男同士の色恋がテーマです。ボーイズラブやゲイ文学としては多くの人に読まれ、愛され、研究されていますが、「女装」から見た「男色大鑑」は、まだそれほどないようです。江戸時代の華やかな女装世界の光と影を、超時空完全女装現代語訳しています。
 男色大鑑は40編あるのですが、その中でみなさんはどの話が好きでしょうか? きっと人それぞれだと思いますが、女装的に井原西鶴が最も書きたかった話はこれ!と、3話目に選びました。

 みんな抱きしめて!四条河原の果てまで!


 参考文献などを含む1回目はこちら


第3話 声の変わり身 空騒ぎ

 節分になると、「鬼は外、福は内。鶴は千年、亀は万年、ずっと長生きできますように」なんて、みんな言っている。いったい長寿のどこがめでたいのか? 年をとってくると、眠りも浅くなって、子どもの頃のようなわくわくどきどきの夢を見ることもなくなって、ふと寂しくなる。変化のない朝、起きると、いつものように顔を洗って、化粧水を塗ったところで、寄る年が寄らないはずはない。とりわけ、子どもを持つ親や、かつて人気女装子だった経歴の男の娘歌舞伎の社長などにとっては、節分の夜に年齢の数だけ豆を食べる習慣は、「また今年も一つ年をとってしまったのか」とより気分が落ち込むことだろう。


 そもそも女装がトップ男の娘として稼げる盛りは四、五年かそこらしかない。女装界は回転の早い世界である。一方、「女はなんだかんだ長く美しくいられる。できることなら、去年引退してしまった男の娘の藤田ミナが、そのまま純女になって、ずっと美しいままでいてほしい」と言う人が世間には結構いる。この大都会、京都には、どんな美女だっている。これに対して、ある人が「全然分かっていないな。単に美しいだけでいいなら、これほど貴重な男の娘が『女のまね』をしていることすらもったいない」とひねって答えた。女装界を楽しむには、ここらへんを分かっていなければならない。

超時空シンデレラ藤田ミナの魅力


 藤田ミナの美しさは、こうである。
 ふんわりと長いウィッグ(かつら)をかぶった顔は、まるで雲間からわずかにのぞく月のようである。カラーコンタクトを付けた目つきは、一日しか咲かない蓮の花のようだ。会話も上手で、しかもだれに対しても優しく、カラオケやダンス、そして麻雀もうまい。まるで歴代のアカデミー賞のハリウッド女優やトレンディードラマの女優の演技をすべて身につけているかのようである。歌舞伎の観客たちは、偽りを真実と思い込み、性的に淡泊な人でも心を乱すほどである。男よりもむしろ純女たちに惚れられて、迷惑したことがたびたびあった。しかし、それほど女性にもてても、純女と寝るなんてことは、まったくなかった。


 普段着も、ほかの男の娘とは違って隙が無い。地味ながら品質のよい黒いコートや上着を好み、一見すると地味に思えるのだが、中はシャツや下着まで真っ白なものを着けている。いつも同じ格好なのだが、いつ見ても見飽きることがない。というのも、シャツや肌着の同じデザインのものを何枚もオーダーメイドで仕立ているとのことだ。今の時代の男の娘にはなかなかできないことである。このセンスの良さは、伝説的な女装だった養父の藤田小平次の好みを受け継いでおり、京の歌舞伎町こと四条河原の界隈では際だっていた。


 この美女装は、大坂の大きな劇場、松本座の社長をつとめる松本ナサが、男の娘として全盛をきわめていた頃(つまり10年くらい前だ)に、舞台デビューした。この頃の藤田ミナは、まだ蕾の梅のようで、いずれ芳香を放つ匂いを深くその身に秘めていた。ある年の春、私(井原西鶴)は、藤田ミナが大坂での初舞台の際に小指に縁結びの二股竹のデザインの指輪をしていたことを思い出し、売れっ子になってから、その竹の名所である天王寺(大坂)に連れて行ったことがある。


 藤田ミナのほか、彼女の友達の女装の主馬浅香なども一緒だったのだが、酔った彼女たちが声を合わせてはやりのボカロをアカペラで歌ってくれたのは、懐かしい思い出だ。酔った勢いで、神子(みこ)町のスナックに出かけ、イタコができるというスナックのママに、先に亡くなった女装の沢井サクの霊を呼び出させた。しんみりとした気分になってきたが、ママが「あたいに会いに来てくれてうれしいですわ」などと、生前の沢井サクが絶対に言わないような口調でしゃべり始めたので、ドン引きして(サクは「ボクっこ」だったのだ)、そそくさと勘定をして、店を出た。まったく涙なんて出ない。「台本のある芝居で泣く商売ほどつらいものはないと、伝説的な男の娘の上村モンノや西川メシアが現役だった時に言っていたけど、間違いないね」とみんなで大笑いした。

夏の夜の夢


 そんな春の日は夢のように過ぎ、だんだんと暑くなってきた。ある日、女装や純男の何人かで道頓堀のコメダでコーヒー飲みながらだべっていると、京都に涼みに行きたいねなんて話が急に持ち上がった。外は暑いし、大坂から京都まで歩いて行くのはやだなぁと慎重な意見も出たが、お金持ちだがデブでしまりのない七十郎や、言い出したら即行動の伊右衛門の純男二人が「ぐだぐだ言っても始まらない」と言って店を出ると、まもなく道頓堀に近い川筋に、屋形船をチャーターしたというではないか。私を含む純男(もちろんあとで船の代金を払う係だ)をはじめ、女装たちも「盛り上がってきた!」と囃し立て、船に乗り込むと、にぎやかに、右から左へと冷たい缶ビールを飲み交わしているうちに、夕方早くに京都の東山の遊郭街に着いた。


 いつも使う茶屋の大鶴屋の二階から見渡すと、花の都というのは、まさにここのことだと実感する。京都の人にも目鼻があり、一方、我々大坂の者にももちろん手足がある。道に小判は落ちてなんかはない、なんともない日常の風景だったが、たくさんの人が集まる涼みの川床には、裕福そうな着物の純女たちがたくさんいて、みな上品である。よくよく眺めていると、特徴的な柄の浴衣や京友禅の着物などなど、いろいろとおしゃれな模様の服を着ているのだ。まぁ、素人目には、こうしたセンスのいい服の値打ちはわからないだろう。ともかくこれほど賑やかな夏の夕べは、スナック街としても知られる京都の八坂神社の神様であられる祇園様もさぞ喜んでいたであろう。神社といえば、その名も「神楽」という京都で有名なリッチな遊び人の神楽庄左衛門(京都遊び人四天王の一人)が、遊び仲間の「幸せの」木工兵衛に耳打ちして、私たち大坂勢の知らないうちに、こうした京のセレブ純女たちの近くに、川床を用意させた。さすが地元の粋な遊び人である。


 夜になって舞台をはけてやってきた藤田ミナらは、男の娘が着ることを法律で義務づけられていた振り袖ではなく、普通の年相応の純女が着る夏服を着ているので、完パス(女装とバレない)だった。彼女たちはまわりにバレないようにとマスクや帽子をかぶっていたが、せっかくの美貌をわざわざ隠しているようでもったいなかった。大鶴屋では「あぁ疲れたぜ」などと、さっきまで荒々しい言葉使いだったのに、川床では裏声を出して話しだすので、この日は参加しなかった男の娘歌舞伎のシナリオライター富永平兵衛センセイでも、彼女たちが男とは気がつかなかっただろうと、私たちはにやにやしながら京の夏の夜を楽しんでいた。


 ところが、ところが、予想されたことだが、京都遊び人四天王の「乱れ酒」の与左衛門が、通り名の通りに悪酔いし出して、女装たちに「君の名は? えっ? 川島かずみちゃん。そっちの色っぽい子は玉本かずみちゃん、同じかずみちゃんだね。静かに三味線を弾いているのは歌山春ちゃん」と、彼女たちの知られている名前をどんどん大きな声で言うので、まわりの純女たちはざわめきだした。まぁ、そういうのも悪くない。


 私は、飲めない酒を少し飲んだだけで、こっくりこっくり眠りそうになって、ふと思い出した。今日は親父の命日だ。命日には焼き肉を食べてはいけないよなと反省し、水で口をすすごうとしたらそれは酒だった。我ながらこんなに楽しく酔ったのは久しぶりだ。


 「死んだ後の世のことなど気にしてもしかたがない。このままでも、こんなに面白いんだから」としみじみつぶやいているところへ、夜なのに編笠をかぶった、ひとくせありそうな男が私たちのグループに近づいてきた。涼み川床の前で「香木で焼いたバーベキューの灰を回収いたします」とか言っている。さすが都だけあって、ごみを収集するのも風流だと思って、よく見てみると、京都遊び人四天王の最後の一人で不動産王の花咲左吉ではないか。

 「いい女のいる床を見て回っているのかい」と聞くと、左吉は大笑いして、「今夜見た女は、どれもこれも不細工ばかり。安い値段で醜いやつらに床を貸すのは、ほんのしばらくでもいやだねえ」と言う。ほかの四天王たちが「いやいや、佐吉! お前の見残しした川床があるかもしれないぞ、ここに!」とか言って、物売りのまねをして踊り始めた。「火鉢はいかが、火鉢は安いよ」
 涼みに来たのに火鉢を売り歩くとはまあ変な男たちだ。「碁の相手しますよ、一番を三文ずつでわざと負けて差し上げます」「奥様の白髪を、月明かりでみごとに抜きます」「若者グループのみなさん、喧嘩の相手はいりませんか」などと、くだらないことで馬鹿騒ぎしていたけれども、さすがに上品に川床を楽しんでいる人たちが多く、だれも乗ってくる人はいなかったのは幸いだ。私の酔いは収まって、彼らが刀を振り回して落としたりしないように気を配りながら、扇の風を楽しんでいた。この平和で愉快な人々との心の満ちた場所。金をためてからの隠居所は女装界にかぎる。


 酔ったみんなで川沿いを歩いていると、三条の橋のあたりに、人の群れから離れて床涼みしているグループがいた。備前焼の茶瓶と茶碗が一つあるだけで、ほかにはコップもない。みなもっともらしい顔つきをして、二十一桁の算盤をはじいて、「酒・肴・茶・煙草など、およそ見積もってどれくらいになるだろうか」と、涼みの間じゅうの経費を勘定して、それを話しの種にしている。「いやはや、暇な男もあるもので、こんなばかげた事で、せっかくの京都をせせこましくしている。男の娘の花代は高いけど、それを計算に入れなくて大丈夫かい?」などとからかって、おかしく思いながら引きあげた。


 夜が更けて、露に濡れた袖をかばいながら、みんなばらばらに涼み床に戻ってきた。山のような人の群れも消えて、鴨川はもとの静かな川となり、流れの音だけがしだいに淋しくなってきて、東の河原に女装たちの甲高い裏声がわずかに響いていた。男役の役者・坂田藤十郎の仲間、藤川武左衛門の酒友達、嵐三郎四郎やその仲間も上機嫌であったが、夜半の鐘を聞いて、明朝から舞台の仕事があるのを思い出し、「身にしみる川風で声がかすれてはいけない」と、それぞれ引きあげた。その後は十三夜の月が涼しげに京の街路を照らし、通りを飛びかう虫がはっきりと見えるほどであった。

ハッテンタイムにちん入者


 「何はともあれ、寝てからの楽しみだ」と、それぞれ女装としけ込んだのは、この日大金を大盤振る舞いした純男たちで、これからがお楽しみタイムだ。ハッテンする相手のない連中(つまり私もだ)は、取り戻せない宵の口のこと(酔っている場合でなく、ちゃんと口説くべきだった)を語ってはぼやき、同じ蚊帳に色気のない純男だけが枕を並べて寝たのは、実にくやしかった。今からでも暇な女装がどこかにいないかと、当てもないことを思いながら、茶屋の障子に映る男の娘のエロチックな影を、うらやましく眺めていると、軒を並べている隣の茶屋の前に、美しい純女が現れた。ほどいた髪の中ほどをちょっと結び、金の房つきの団扇を手にしている。思いがけない女の風情に、月は晴れているが、謎は晴れず、みんな気もそぞろになって、逆にちょっと怖くなって心の中でお経を唱えたりした。しばらくたっても女の姿は消えず、こちらに近づいて、誰か知らないが人を招き、「薄情者」と言ったので、なるほどリアルな人間で、恋のためなのだとわかって安心した。


 純男たちは誰も身に覚えはないので、こんな目にあってみたいものだと嫌みなことを思ったが、どうせ男の娘のだれかがお目当てなのだろう。その純女は身もだえて、「せめて返事だけでもしてもらえないものか」と、涙をぽろぽろ流している。女が投げつけた手紙の表紙を見ると、「田子の浦袖さへ匂ふ」と書いてあったので、あぁ藤田ミナを慕っているんだとわかった。ミナはこれから遊び人四天王の誰かと寝るはずだが、なんとなく哀れになって、私(井原西鶴)は「せめて一杯くらい」とビールをコップにつぐと、いやな顔をしたミナに一口だけ無理に飲ませて、中身の残ったコップを店の軒下のベンチに置いてやった。すると、この純女はうれしそうに飲み干し、コップを戻し、「空っぽの杯でございますので、おいしいお肴を一つつけましょう」と言って、西野カナの「トリセツ」を歌い出した。これを肴にしろということのようだが、意味がわからない。「この辺で有名な井筒屋という茶屋の娘にそっくりだ」と誰かが言った。ミナのハッテンを邪魔する純女だが、相手のいない我々は特にとがめだてをする気も無い。それなりに空はだんだんと明けていったが、男にも女にもこんなに慕われたのは、藤田ミナくらいである。

 思いつきで女装と純男とで、京都まで行って風流に遊んだ。それが楽しかった。それだけの話で、小判が落ちていたといった盛り上がる事件などはなにもなかった。オチのない話で申し訳ないが、とにかく楽しい思い出だった。

女装的解釈

 *井原西鶴が一番書きたかった話がこれだと個人的に思っています。「なんのオチもないけど、とにかく楽しい」がテーマであろうと。また、もとのタイトル(声に色気のあるの化け物=純女のお話)にあるように、これもまた「純女うぜぇ」にポイントが置かれています。ただ、夜の相手の見つからない井原西鶴ら純男たちが(今も昔も女装のほうが圧倒的に少ないので、純男はあぶれがち)、あえて藤田ミナ(原典では藤田皆之丞)のハッテンを邪魔して、この純女との間を取り持つ(酒を酌み交わせる)ところが、仲良し女装と純男の「あるある」ですね。2話目で紹介した「嫉妬のない女装界」と矛盾するのではと指摘されるかもしれませんが、もちろん、西鶴たちもいたずら半分だし、このあとこの純女は相手にされず、ミナは夜遊び四天王の誰かとしっぽり朝まで楽しんだはずです。障子(カーテン)を挟んだ隣で、かたやエッチをし、かたや男同士でくだをまいているという情景は、現代の女装界でも日常なのです。原典は巻8の1「声に色ある化物の一ふし」。

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