女装と純男のための完全女装現代語訳『男色大鑑<男の娘編>』その1

 『男色大鑑(なんしょくおおかがみ)』は、『好色一代男』で知られる江戸時代の作家、井原西鶴のノンフィクション風フィクションな作品です。言うまでも無く、「男色」つまり「同性愛」を賛美する本ですので、井原西鶴の主著でありながら、「西鶴の著作とするのは訝しいと見なくてはならない」(森銑三『井原西鶴』<人物叢書>吉川弘文館、昭和三十三年第一版、昭和六十年新装版)などと、西鶴の黒歴史になってきたのは、明治時代以降の近代化で、女装や同性愛が禁忌とされたことが大きいのでしょう。

タブーとされてきた井原西鶴の代表作

 前半(1~4巻)は主に武士の男色、たいていは同性愛(男性が男性の姿の相手を好む)がテーマ。後半(5~8巻)が、若衆と呼ばれた歌舞伎の女形つまり女装たちが出てきます。前半の武士同士の同性愛のパートについては、格調高い文体であることから、文学的な価値も高い、と割と評価されてきました(ドナルド・キーン『日本文学史』など)。
 しかし、町人出身の西鶴は、武士社会についてはアウトサイダーです。格調高い=よく知らない、でもあるわけです。
 ところが後半の歌舞伎役者の女形については、風聞もあるけど、実体験が豊富で、ルポタージュとしては、むしろ前半の作りこまれた世界よりも迫真に迫っています。


 「男色大鑑」自体は、同性愛タブーから、全集からも省かれたりと、あまり触れられないでいましたが、昨今のBL(ボーイズラブ)ブームで、いわゆる腐女子の方々に見いだされて、再評価されています。この現代用語である「ボーイズラブ」というカテゴリーからの脚光に加えて、これまた昨今の世界的な「LGBT」の興隆により、「LGBT」文学、「ゲイ文化」としてフランスなどで見いだされ、現代社会的においてもようやく高い価値を与えられるようになったようです。

 ところが、令和の今でも、世間では、「同性愛」と「女装」を同じものだと(誤って)認識されています。女装=同性愛、ではない、ということについては、本稿と趣旨が異なるため、説明を省きますが、とにかく井原西鶴は「同性愛(ボーイズラブやLGBTに含まれるゲイもしくはバイセクシャル)」と「女装」をわけています。前半は「武士」、後半は「町民」というだけではありません。後半の歌舞伎役者は、もちろん男役(タチ)もいて、その人たちも同性愛の対象でありました。しかし、この「男色大鑑」の後半で、井原西鶴は、男的な男である歌舞伎役者たちのストーリーに全然関心がないのです。(実際には、男役の役者ともめっちゃ仲良かったようですが、それにも関わらず)。男役の役者はどんなに人気があろうとも女装界でのプレーヤーではないからです。

女装界に生息する「純男」としての西鶴


 つまり、何が言いたいかと言うと、男色大鑑の後半(歌舞伎若衆パート)は、BL文学でも、ゲイ文学でもなく、「女装文学」なので、あります。
 と言いながら、文学的なことはよくわからないのですが。
 もっとはっきり主張したいのは、井原西鶴が、現代の女装界における「純男」(じゅんお)だということです。この紛れもない事実は、これまでの研究で正面切って論じられてきたことは、ありません、たぶん、知らんけど。


 女装の世界では、女装のことを女の子のように好きになったり、遊んだりする男のままの格好の男を「純男」と呼びます。「すみお」と発音する人や地域もありますので、どう呼んでもよいです。女装は女装だけでは生存できません。女装を女性と見てくれる、この純男層が厚ければ厚いほど、その女装コミュニティーは豊かになります。

 この純男は女装とも寝ますが(ハッテンという)、たいていの場合、彼らは「同性愛者」ではないのです。外から見れば、女装も純男も「同性愛者」だろうと思う人が(女装界以外では)ほとんどだと思います。しかし、女装の多くは、女装している間の自分はただの女であり、同性愛者とは思っておらず(思わないようにしている)、また純男も女装を男ではなく女として接するのです。


 そして、この視点があれば、井原西鶴はあきらかに純男であるということが確認できるでしょう。女装の世界に一度でも足を踏みいれたことのある人なら、きっと理解できる、はず。その点、BL好きな腐女子のみなさんや、近世文学として研究されている先生がたは、「純男と言っているのは、念者(ねんじゃ)のことではないのか」と疑問を持たれるかもしれません。実際、前半の主に武士層たちのお話は、「念者(兄貴)と若衆(弟分)」という同性愛的な関係で書かれています。

 しかし、後半が前半とだいぶテイストが違うことは、これまでもさまざまな研究で指摘されています。おおくは、その差は「武家」と「町人」の差などとされてきましたが、実はもっと大きな差異、「同性愛」と「女装」の間の空気のギャップが横たわっているのです。

 「男色大鑑」は、前半の(表面的な、つまり文学的な)同性愛への賛歌とうってかわって、「俺(井原西鶴)が好きだった女装と、彼女たちと一緒に騒いだ夜の甘酸っぱい物語」なのです。

 もっとも、そのように男色大鑑を読み始めてから知った、『全訳 男色大鑑』(武士編が2018年、歌舞伎若衆編が2019年刊行、文学通信刊)で、編者をされている染谷智幸茨城キリスト大教授と畑中千晶敬愛大教授それぞれの解説を読むと、染谷「西鶴が『男色大鑑』を書いた密やかな、そして真実の理由は、推しの若衆○○の尊さ素晴らしさを世間に認めさせようとしたからじゃないかと考えています」(武士編228ページ)、畑中「訳文としては恐らく、一つの意味だけを拾って、単線的にサクサクと前に進めた方が読みやすいに違いありません。しかし、もう一つの意味を拾い続けていくと、表面上語られていた文脈とは別の文脈が見えてくることがあり、これも捨てがたく思われます」(武士編215ページ)など、さすが研究者は微妙な差異を分かっていらっしゃるんだなぁとも思いました。


 と言うわけで、前置きが長くなりましたが、「男色大鑑」5巻以降の「歌舞伎若衆」編を、女装目線・純男目線で、完全現代女装語訳(完女訳)しました。女装の方はもちろん、日頃、女装と違って、あまり日の目を浴びない尊敬すべき純男のみなさん、ぜひ読んでみてください。

 完女(完全女装)訳にあたっては、『新編 日本古典文学全集 67 井原西鶴集2』(小学館、1996年)の「男色大鑑」の原文および注釈、現代語訳、そして『全訳 男色大鑑<歌舞伎若衆編>』を常に参照させていただきました。特に後者の「歌舞伎役者の活躍時期一覧」(223ページ)は、前者の現代語訳を読んでいてわからなかった登場人物の関係性や立ち位置に想像をふくらませることができました。文学的な知識がないとわからない部分や私の教養では理解できないところは、果敢にぶったぎったり、加筆したりしていますので、少しでも「男色大鑑」に興味をもたれたかたは、小学館の文学全集はたいていの図書館にあると思いますので、ぜひ原典も読んでみてください。

 とりあえず全20編中6編は、完女訳すみ。6日間は連続でこのnoteに連載しますので、毎日読みにきて、「スキ」してもらえるとうれしいなぁ。


1 自毛を切った涙の理由は?

 「今の京都では何がはやっているか?」と言えば、「倹約してカネを貯めること」と言われる。それは今に始まったことではない。若い女装子(若衆)による歌舞伎がいったん禁止になったあと、村山又兵衛という人が「物まね劇」と称して、女装子を再度集めて「男の娘(野郎)歌舞伎」として再開した。「男の娘」は男と明言しているのに女装であることも自然と理解される、うまい単語を考えたものである。40年以上前になるその頃は、京都でも舞台にあがる女装を相手にハッテンすることは比較的少なかった。それでも夜をおともにすると1泊3万円(金一分=銀15匁)が標準的な料金(花代・揚げ代)だった。


 ところが、誰が始めたかはわからないが、男の娘歌舞伎の主演級の女装たちをみんな、京都の東山にある高級料亭(茶屋)に呼んでご馳走をするようになってから、その花代は8万円(銀5両=約43匁)と倍以上になった。女装たちにとってはなんともお気楽な時代になったわけで、男の娘だけでなくお付きの運転手やマネージャー(草履取り)にも4000円(銀2匁)のチップをあげ、さらに料亭には飲食代として3万円(銀2両)ほどを払うのがルールになった。それだけ払えば、彼女たちが出演する芝居が終わってから夜が明けるまで、オールナイトで、お目当ての人気男の娘を占有して遊べたのだった。

 ただ、その頃の女装子たちは、まったくウブだったので、何度も同伴やお持ち帰りをするようになっても、純女(普通の女性)の商売女と違ってお金の無心をしたりすることなく、「欲しい」と言っても、せいぜいちょっとした髪飾りや化粧品など、千円くらい(銀四、五分)の物でも喜んでくれた。

 しかし、30年ほど前のある年、京都の妙心寺で、全国的な大イベントが行われたとき、全国の裕福な僧侶たちが京都に集まって、法事を行った後、ハッテン場としても有名な歌舞伎の劇場のある四条河原を見物した。僧侶たちは田舎ではめったに見られない、若くてパス度の高い美しい女装たちに一目惚れして、男の娘たちを買いまくった。売れっ子だけでなく、女装さえしていればどんな見た目の子でも、一日中、昼も夜も買いまくったので、花代の相場が踏み上がったのだった。このお坊さんたちは、京都の滞在日が決まっていたので、お金に糸目をつけなかったので、彼らのせいで、もともとから女装好きな純男たちは「女装たちがすっかりすれちゃって」と嘆いたものだ。

伝説の女装藤村初音

 この当時(30年くらい前の話だ)、村山座のトップスター藤村初音という女装はとくに美貌で、カラオケもうまく、見た人たちはみんな惚れこんだ。

 ある日、東山で花見をした際に、咲き誇った桜の枝を折って、「とてもきれいだったので。花見に行けなかった人に持って帰るわ」などと心遣いもすばらしかった。そんな彼女が戻ろうとした途中、別の場所で花見をして酔っ払った連中と遭遇してしまった。昼間から飲んでいてもう夕方になろうかというのに顔を真っ赤にして大騒ぎをして、「一気、一気」などと下品に飲み続けていた。酔った彼らは、通りかかった初音が持っていた桜の枝を見ると、からんできて、こう言った。「その桜をくれ。腹が減ったから、酢味噌につけて食べる。ガハハ」
 初音は「春に嵐とは言ったものですね。ただでさえ美しい花を折ったことも心苦しいのに、そんなひどい言いかたはないでしょう。花をあげることは惜しくないですが、やり方がどうかと思うので、あげるわけにはいきません」ときっぱり言って、通り過ぎようとした。男たちは「このままでは男が立たない。絶対にもらう」と騒ぐ。だが、渡してしまえば初音も「女をさげる」ことになり、一歩も譲らない。


 「都会の京都でもこんなむちゃくちゃなことを言うやつらがいるのか」と道行く人も、足を止めて、危なっかしい騒動を見守った。初音のマネジャーの久蔵は、命を投げ打つ覚悟を持ちながらも、初音を傷つけてはいけないと怒りを抑え、知っている人でもいれば彼女を預けて、自分は大勢相手に戦おうと決意した。その時、物腰の柔らかな優男がすっと現れた。この男は上品なファッションで身を包んでいた。優男は話を聞くと「ここは私が預かりましょう。欲しいと言われた花はあげてしまいなさい。その花をどうされようとも自由にしなさい」と説得すると、初音は納得しきれない様子ながらも、この忠告に従って、さっと桜を渡してしまった。


 暴れていた男は「よっしゃ! 酢味噌に食べる桜!」と喜んで持って行こうとするのを、風流な優男はその袖をつかみ、「その桜、すぐに私にください」と言った。ぷちんと切れた男は「たった今、『くれる』と言ったばかりなのに、なにを言うか」と大声で怒ったが、優男は動揺もせず、「今の京都では、こんな無理が通るのだよ。お前はその桜に首をかけられるのか?」と殺気を放つと、男はびくっと恐れてあわてて桜を手渡した。最初の威勢のいいところから一転、非常に見苦しかったありさまに、見守る人たちから失笑が漏れた。


 優男はその桜を初音に返すと、男の胸ぐらをつかみ、「言いたいことがあるようだが、おまえさん、だいぶ酔っているようだから、後日、酒に酔っていないときに、私を訪ねてきて、恥をそそぐがいい。私は逃げやしない」と、懐から紙とペンを取り出すと、さらさらと「いろはの十郎右衛門」と、名前と会社の住所を書いて渡した。「なんてかっこいいのだろう」と見守っている群衆は彼を褒め称えた。
 行き当たりばったりの出会いであったが、初音は感謝を忘れず、その夜のお客との約束をキャンセルして、高級ビジネス街の東洞院にある十郎右衛門の会社をお忍びで訪問した。「もし昼間の男たちが斬り込んできたら、私が身を張って犠牲になります。人に迷惑はかけたくありません」との決意を伝えると、十郎右衛門も心を寄せるようになった。ちなみに、馬鹿どもたちがやってくることはなかった。


 こうして心が通じあうようになり、それからは恋愛(衆道)関係になり、お互いに愛し合い、2年あまりの関係が続いた。その間、マニアックなプレーもぞんぶんに楽しみ、いろいろなことを誓い合った。若社長である十郎右衛門はそれから、純女やほかの女装と遊ぶことはなく、初音一筋だったが、勤務先からも怪しまれ、とりわけ会社の会長である養母には「嫁を見つけて来いと言ったのに、まさか女装とくっつくとは」と、きつくとがめられた。十郎右衛門は、養母に不満を書き残して、行方不明になってしまった。
 初音は恋人の失踪に嘆き、神様に祈って行方を探したが、思いわずらって、舞台にも集中できなくなり、家に引きこもるようになり、次第に美貌がやつれていった。初音は、その理由を劇場の社長に説明して、男の娘歌舞伎の世界から引退させてもらうことになり、大坂の難波の裏町に住むようになった。だんだん気分はよくなっていったので、紙を売るお店を出し、その年は過ぎていった。彼氏が紙の商社を経営していたので、どこかでつながりがあれば、とも考えていたのかもしれない。


 ある日、芸能界引退を不思議に思った昔から知り合いの役者が「就職(出家)するでもなく、四条河原の劇場もやめたのは、どうした理由なのかい?」と尋ねると、彼女は「私が地毛の長髪に未練があると言いたいの? 私が想う人が戻ってきたら、前と同じ私を見たいかもしれないと思ってきただけなの。一度見せてからすっぱり髪を切ろうと思って待っていたけど、あなたからそんな風に言われるとくやしい」と、その場で髪を切って、十九歳の若さで和歌山県の山深い会社(高野山)に就職してしまった。その後、京都から知人が訪れても会うことはなく、朝には職場でお茶を出し、夕方には掃除をして帰る慎ましく仕事に集中する暮らしを続けた。
 一方、初音が恋い焦がれた十郎右衛門は1年ほど後、丹後国の天橋立(京都府北部の日本海側)で行き倒れて、はかない終わりを迎えていた。初音はこのことをだいぶあとになって伝え聞き、遠路はるばるその場所を訪ねて、供養をすると、その後は、完全に女装の世界とは離れ、再び人と会うことなかった。

エンディングなイメージ

女装訳注

 *この話は、男色大鑑後編の1話目(巻5の1「涙の種は紙見世」)、つまり女装編の冒頭である。藤村初音(原典では藤村初太夫)が、女装の究極の姿である「女より女らしく。男より男らしい」を体現して、井原西鶴の中で理想像として描かれている、と思う。端から見ると、女装と純男の恋愛関係は、「同性愛」に見えるだろうが、初音が女性として十郎右衛門としてつきあっていることがポイントだ。井原西鶴は、同性愛ノットイコール女装とはっきり示していると感じる(「衆道」という言葉も使い分けている)のだが、ノンケのみなさんはまだよく理解できないこと思う。読み進めるうちに、だんだんとそこらへんが理解してもらえるはずだ(とうれしい)。
 金額については、もともと江戸時代は銀と金の価格差がある上、対象となる期間がおそらく30~40年あるので、現代と違いインフレも大きく、それを現代の価格にするのは非常に難しい。特に女装訳の参考にさせてもらった2冊『新編 日本古典文学全集 67 井原西鶴集2』(1996年)と『全訳 男色大鑑 歌舞伎若衆編』(2019年)では、前者が銀一匁=2000円、金一分=金四朱=銀十五匁=3万円、金一両=銀六十匁=12万円としているのに対し、後者は銀一匁=1330円、金一分=2万円、金一両=8万円となっている。インフレだった江戸時代と比べて、現代はのちの出版物のほうが安く、デフレになっているのは、現代社会的に興味深い。

 また、小野武雄編著『新装版 江戸物価事典』(展望社)の435ページには、江戸で遊女と遊ぶ料金がずらっと書いてある。そのなかで所々に「かげま=陰間」の料金がある。陰間は、舞台に立たずに身体を売る女装子や同性愛相手の男子のこと。だいたい1泊すると2朱金=1万5000円、ショート(たぶん2時間とか)は200文=6000円が相場のようだ。舞台女優でもある歌舞伎若衆(ここでは「男の娘」)と売春専門(売り専)の陰間では、当然ながら価格差がある。この物価事典によれば、吉原の芸者と泊まると、金額が跳ね上がり、有名な芸妓(げいこ)であれば20両=360万円!、どんなに安くても3両=36万円より下はなかった。男色大鑑でも、数十年前の相場でありながら、もろもろ(複数人の男の娘の花代、足代、チップ、場所代など)を足すとかるく数十万円はいきそうで(別の話に<現代>の男の娘相場として、マネージャーへのチップが数万円!という話がある)、会社やお寺の経費が自由に使える井原西鶴のような<社長さん>でないと、思う存分に女装遊びはできなかったのだろうなと思う。

 現代の日本では、女装のハッテン場に純男でも数千円で入り、楽しむことができる(ハッテンできるとは言っていない)。デフレも悪くないものだ。

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