女装は薬!女装と純男のための完全女装現代語訳『男色大鑑<男の娘編>』その2


 「好色一代男」で知られる江戸時代の井原西鶴の代表作「男色大鑑」。傑作中の傑作とも言われながら、男色=同性愛を正面から取り上げられているため、なんとなく無かったことにされてきたのが、この作品の特徴と歴史です。

 近年、BL文学として、ゲイ文学として注目されていますが、「女装と純男」という視点では、まだあまり読まれてはいないようです。

 同性愛とはちょっと異なる「女装」という切り口で見るからこそ見える純男・井原西鶴の女装賛歌を、超時空完全女装現代語訳しています。キラっ!今回は2話目です。


 参考文献など1話目はこちら

第2話 あなたの心を染めるのは女?それとも男?

 中国の揚子江より南にはえているミカンの木を北の地に植えると、たちまちカラタチという食べられない木になり変るということわざがある。つまり、人は姿も性質も環境で変わりうるということだが、まったくその通りだ。

 日本の女装界にもそういう例がある。大坂の淀川より北に住む赤茶に髪を染めたやんちゃな男子大学生を、南の道頓堀のハッテン場の熟練の純男が手塩にかけると、まもなくつやつやした黒髪ロングの清楚な男の娘になって、あれがそれかと思うほど変身するのが、それだ。人間はちゃんとしたメイクをすれば美しくなるものだ。

 「もともと、不細工な人間はいない」という者もあれば、「インスタ映えする上玉はめったにないよね」と皮肉を言う者もいる。男の娘(野郎)歌舞伎の劇場の社長をはじめとして、女装の先輩たちが「この子は映える」と育てようと目をかけた若い女装たちの行く末を見ると、実際のところは、舞台に立つどころか、ミックスバーや女装バーでカウンターに立てるほどの子だって、千人に一人くらいのものである。

 器量がいいかと思えば心がにぶく、賢いかと思えばカラオケができず、三拍子揃った子はなかなかないもので、店のオーナーに迷惑をかける者がとても多い。必ずものになると思っていると、精神的、身体的に病気になるというぐあいで、危ないのは女装を仕事にすることである。

より女より女らしくなった昨今の女装

 ただ、純男の立場から考えてみれば、女装界に落とすお金に、何の惜しいことがあろうか。女装と遊ぶ金は、命をのばす薬代である。薬袋には「用量は控え目」と書いてあるものだが、今の男の娘たちは、昔のそれとは大違いで、めちゃくちゃ美人が多い。遊びを控え目になど、できっこない。彼女たちは見たところは男っぽさは残っているが、気持ちは女以上に女性らしく、ふんわりとおしとやかで、話をしていて飽きることがないのだ。

 昔は同性愛といえば、「やらないか」と荒っぽく力んだり、「アーーッツツ」といかついものの言い方をし、がっちり、ぽっちゃりの男を好み、複数人で○付けしたり、ブランコで○○たりと体に疵をつけかねないハードコアを本意としていた。それをまねて、男の娘までも、盗んだバイクで走り出しかねない荒っぽい者もいるが、純男から言わせてもらえば、女装に荒々しさは無用である。

 けが人続出で有名な江戸の日枝神社の山王祭でさえ、今では血を流すことなく神輿が渡るようになっているではないか。武士も甲冑のいらない時代になったから、遊びの場には果物ナイフだって持ち込まないほうがよい。純男が女装サロンにお土産に持ってきたスイカやメロンも、すっと裏側のメイクルームに持ち込んで、皿盛りにして出せばすむことだ。「女々しくて」が今の女装のトレンドである。江戸では男の娘に小紫と名づけ、京都では、かおると名づけているが、遊女と同じ名も、ものやわらかで聞きよい。やはり、女なのだから女らしい名前をつけてあげたい。

 袖島イチカ・川島サミ・桜山リン・袖岡コンマリ・三枝カセンなどの若い男の娘たちが、美しいうえに女のように赤い下着をつけているのは、実に色っぽくて、しおらしくて良い。夜が明けると楽屋入り、暮れには楽屋帰りの男の娘たちを、彼女たちと同伴やアフターできない一般人が大勢見物するからこそ、スマホにぶらさげたそれぞれのオリジナルのストライプ(紋所)を覚え、その名前が広まるのである。

 立派な芸人ではあるが、男役(立役)の鈴木平左衛門や山下半左衛門、内記彦左衛門や竹島幸左衛門などの楽屋帰りを、さほど気をつけて見る人はいない。それにひきかえて、フリースのジャージを着て、食事の買い出しをするような、まだ見習いの男の娘が、髪が結えるくらいに長髪になっているのを、人々は将来のスターとして目をつけるのだ。こうした男の娘ジュニアには、腐女子のみならず、既婚の女性たちも、道頓堀の南の千日寺のあたりに群がって、かなわぬ恋に心を燃やしている。

女装界の友達と小旅行にいったとき

 この前、勝尾寺の仏像の開帳があった時、私(井原西鶴)は、仲のよい女装の陣内ヤマトを誘って、純男と女装の何人かのグループで見に行った。中津川の船渡しを越えて、北中島の鎮守の森で、車(駕籠)を止め、「煙草吸って、お茶飲もう」としばらく休んでいると、後から十五歳かせいぜい十六歳と見える美少女(純女)が、運転手付きの高級なレクサスでやって来て、降りてきた。ブランド品で全身をまといながら、持っているバッグや靴など、すべて上品で自然で、非の打ち所のないお嬢様だったので、私たちは「ほぉ」と小さく声を出したくらいだ。

 この少女は最初はこちらに気づかないように近づいてきたが、ヤマトと目が合うと、ぱっと顔を赤らめ、バッグから最新のスマホを取り出すと、わざとらしくこちらに見せた。ぶらさがっているストライプが、ヤマトオリジナルのグッズではないか。高級ブランドにはまるで合わない趣味の悪い(笑)グッズなので、よほどのファンなのだろう。この少女はその後、足をがくがくさせて、歩けなくなってしまい。お付きの人にレクサスに乗せられて、その美しい姿は消え、会話もなく別れた。
 この少女とは、目的地の勝尾寺でも会った。少女は悩ましい目つきをしながら、私たちのあとを付いてくる。寺の坊主がいろいろな寺宝の由来を、ああだこうだと口達者にまくしたて説明していると、少女は「(寺の歴史として説明された)馬の角を蜂が刺したからって何の意味があるの? 牛の玉が割れたって別にいいじゃない。天から降りてきた仏様も、まったくありがたくない。ありがたいのは、今ここにいるこのお方だけ」といった顔つきで、ヤマトの横顔をありがたそうに見つめている。一緒にいる私(井原西鶴)は、「かなわない恋なのに哀れだな」と眺めていた。まったく、こんな女と結婚することになる男はかわいそうだ。

いやぁ、やっぱ女装っていいよね

 同性愛(衆道)の世界だったなら、こうしたライバルの出現は命を捨ててでも阻止しようとなるのだが、女装界のメンバーは、女装も純男も、単に純女のいない気楽な空間が好きな趣味の仲間なので、なんとも思わずにお寺を出て、その夜は、かつて紅葉を見にいったことのある桜塚の落月庵という飲み屋で、まじめなアニメ談義をするオフ会に参加した。ノンケも交えたお酒の席だったが、地元のノンケっぽい参加者が「この村にも時々、流しの男娼が来るんですよ」なんて話をしだしたものだから、(流しの男娼と舞台にあがる女装界のエリートの男の娘を同じに見るとは)と一同しらけてしまい、オフ会はお開きになった。その帰り道は女装と純男だけの仲のよいグループになり、途中で誰かが「そういえば、ヤマトに色目を使った純女、うざかったね」と言い出して、「そうだ、そうだ」と天満川で身を清めることにして、みんなで笑って、女を見た目を洗い流して、全身びちょびちょになり、大笑いしながら道頓堀に帰ったのだった。

 夜は明けた。目覚めてはっきり自覚した。恋の空騒ぎも、芸能人の不倫報道も、女装に関係ない話なら、噂話でも私にはまったく興味がない。こうした女装や同性愛は、別に私だけの特殊な性癖ではなく、インド、中国、日本の三大国中ではやっている遊びである。インドでは「非道」と言うらしいが、「道ならぬ道とは」ちょっと皮肉なネーミングだ。中国では、レンガと戯れる意味の「狎甎」(あせん)と呼ばれているそうで、日本ではご存じのとおり、衆道と言って、めちゃくちゃ大ブームである。

 女好きや、女に対して性欲を持つことで、愚かな人たちが絶えない。願わくは女装界だけがこの世界のすべてとなり、いっそ女なんか滅ぼして日本を男だらけの列島にしたい。そうなれば夫婦喧嘩もなくなり、嫉妬をすることもなくなり、平和な世の中になるだろう。

女装後付け注釈

 *この回は原典では最終話になります。最初から最後まで「女装あるある」なエピソードばかりなので、2回目に持ってきました。私自身はパートタイムお気楽趣味女装です。原典の「あぶなきものはこれなるべし(女装を仕事にするのは甘くないよ)」は、きっと純男として、あまたのプロ女装たちを間近で見てきた西鶴なりの実感だと思います。さまざまなリスク(短命や心身の病気になりがち)はあるけれども、それをこえる楽しみが満ちあふれているのが女装界なんだよって話に展開していくところが、「あぁ、西鶴さん、分かってる!」って、女装や純男なら、読んでいてテンションが高くなるに違いありません。

 「男色」と「女嫌い」は、今でもリンクしてイメージされやすい要素でしょう。でも、女装も純男も、多くの場合は、「女性が本心から嫌い」というわけではありません。実際、女装や純男は妻子がいたり、恋人は純女だったりすることが普通です。これは、男性の同性愛(ゲイ)が本質的に女性を性的に苦手である人が多い傾向なのとは対照的です。ゲイバーでは女性客は「このブス」って言われるかもですが笑、女装バーや女装の人は(人によりますが)傾向としては、女性に「ブス」とかは、まぁふつう言いません。
 女性が「嫌い」や「苦手」ではなく、笑いながら「うざっ」くらいな感じが適当かなと思います。
 いいわけっぽいですが、実は、女装をすると、女性に敬意を持つようになる人が多いんです。女装する前は女とみれば「顔」や「胸」に目が行ってしまうのが男のさがですが、女装をすると化粧の仕方やファッションを(自分も取り入れようと)観察するほうに視線が向き、同時に純女ならではの美しさや所作に感心し、その気苦労に同情し、心の底からの敬意を持つに至るというわけです。
 井原西鶴も、女性のことはそれほど嫌いではないでしょう。しかし、女性より女性らしさを追求していく姿勢。それでありながら、男同士の気楽な付き合いのできる。そんな女装界が、より居心地がよかったのでしょう。現代の純男も、こういう人は多いです。

 同性愛と女装を一緒くたに見ている一般の人たちは、ここらへんの差がなんとも理解できないかなと思います。願わくは、BL好きや衆道文学研究者におかれましては、この方向性の違いを頭の隅に置いていただければ、思いがけない発見に結びつくかもしれません。
 例えば、原典で、純女の超絶美少女のことについて、「これ衆道ならば命かえりみるにはあらねど、おのおの女嫌いや洒落仲間、何とも思わず下向して」とあります。ここで、井原西鶴は「同性愛(衆道)」と「女装」を使いわけているのが分かるでしょうか?

 衆道は同性愛で、ざっくり女装も含まれているのは当時も現代も変わらないのですが、ここの「衆道」を、女装界も含めて解釈すると、意味がわからなくなります。例えば、小学館の新古典文学全集での現代語訳では「これが衆道というのなら、命などどうでもいいのだが、みんな女嫌いのしゃれた仲間なので、なんとも思わずお山を下り」で、2019年刊行の新しい現代語訳の「全訳 男色大鑑<歌舞伎若衆編>」でも「これが衆道ならば、命懸けでも恋をかなえてやるところだが、ぼくらはみんな女嫌いの道楽者だから、こんなことはなんとも思わないで下向して」と若干意味不明になっています(失礼!)。
 衆道(同性愛に限定)と女装を使いわけているとすれば、この直後に、流しの売り専(陰間、飛子=必ずしも女装だけでなく、ゲイ的な男性も多い。現代から考えてもむしろそちらのほうが数は多かったでしょう)の話が出て、女装と一緒にされたことに、一同が不快に思いつつもそれをわざわざ指摘していないのも、同じ意味であると理解できます。

 そこで完全女装訳では、「全訳」とは真逆の「俺たちがゲイだったら、言い寄ってくるものは男でも女でも命がけで阻止するだろう。けど、女装界なんで、そんな面倒なことはしない」というような訳にしました。
 男色大鑑前半の男の同性愛でも、むしろ純女以上の嫉妬の世界を描いています。最後の一行を同性愛を含む「衆道」ではなくわざわざ「若道(女装)」と言葉を選んでいるのは、西鶴が、女や男の同性愛に比べて嫉妬の少ない女装界を理想郷としている、のだと女装的には考えました。

 まぁ、ここらへんは、巻8の5の「全訳」をされた編者の畑中千晶敬愛大教授にいつか聞く機会があれば(あるのなら)聞いてみたいものです。陣内ヤマトは原典では、大和屋甚兵衛。原典は巻8の5の「心を染めし香の図は誰」です。

追記

 と、書いていて、前回の投稿ツイートに、その畑中千晶先生がすぐに反応していただいて、恐れおののいたのですが、それを受けて、書き換えるのもなんなので、すみません、すみません、大変失礼なままですが、「文学研究者は分かっていない」的な文体になってます。すみません、すみません。でも、全訳で「ぼくら」って訳されたところは「独特なコミュニティーの空気感」を表現していて絶妙な現代語訳だと感じ入っています(ひよる)。

次回予告

あした公開予定の第3話は井原西鶴が40編中で一番書きたかったと女装的に思ったエピソードです。この話が一番というのは、もちろん読む人によって違うはずですが、「エエこれ?」って思う人が既読者には多いセレクトになるはずです。お楽しみに。


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