第1部完結!最高の純男が400年ぶりによみがえる! 超時空女装現代語訳『男色大鑑<男の娘編>』第6話

 「男色大鑑」の井原西鶴は、作家である前に、俳句の達人だったとのこと。それだけに、はしょっている要素が多く、行間を読め、背景を読め、ということが求められるのだそうです。まぁ俳句だったり古典だったりの教養についてはこの女装訳では完全に排除しておりますがキリ、行間だけに込められたがために、誤解された(かもしれない)ままのとある純男の物語については、しっかり背景と行間を書き込みたいと思って、めちゃめちゃ加筆したのがこの第6話です。
 最初、千絵と西鶴の関係性がいまいちわからなかったのですが、毎度毎度お世話になっている「全訳 男色大鑑<歌舞伎若衆編>」の巻末、「歌舞伎役者の活躍時期一覧」(223ページ)で、「あぁ、これくらい時期がずれているんだ。そうすると、こんな関係だったりして」などと妄想の翼をはやした次第です。

これでとりあえず第一部は終了です。また現代語訳がたまったら再開したいと思います。<全訳>の畑中千晶先生にツイッターでつながったり、こんなサービスめったにしないんだから!

センセイとはいつか、歌舞伎町の女装バーあたりでカラオケして、男色談義したいです。
 参考文献など第1話はこちら

第6話 賽の河原で積み上がれ! すれ違いの思い石

 京都の伏見に、平安時代の恋愛悲劇にまつわる有名なパワースポット「恋塚」がある。一方、京都の今熊野に「新恋塚」と呼ばれる新スポットがあるのをご存じだろうか。元祖、恋塚は純女をめぐる男女の三角関係だが、新恋塚を建てたのは、伝説的な男の娘ディーバ(歌姫)玉川千絵なのだ。


 日本では古来、東京の多摩川など六つの玉川が有名な名所が知られており、玉川千絵は人間ながら第七の玉川なんて言われたほど、歌の世界では男女関わらず知らないものは今でもいないであろう。

 私(井原西鶴)より二十歳くらい年上で、三十年以上前、まだ子どもだった頃にはじめて彼女を見たときには、「えっ? これが男?!」とぶったまげた記憶がある。まだ男の娘(野郎)歌舞伎が「若衆(女装)歌舞伎」と呼ばれ、役者は額をそり上げる義務がなかった頃の話なので、まるで純女との差がなかったのだ。あの名曲「風ふけばおきつ白波」の甲高いファルセット(裏声)が舞台に響き渡り、幕がするするとあがるとともに、スポットライトを浴びた千絵が登場する。あの瞬間の美しさと言ったら、本物の小野小町が現れたとしても、千絵には遠く及ばないだろう。

高貴なる歌姫玉川千絵!


 玉川千絵は十四歳の春から京都の舞台に立ち、男の大厄である四十二歳まで振り袖を着て演じつづけた。四半世紀にわたり、一日たりも観客に飽きられたことがなかった。現代、そして未来の男の娘たちは、彼女にあやかってほしい。伊勢物語で有名な「河内ロック」のミュージカルを三年も続けてロングラン上演し、江戸の観客を魅了した。辛口のサイト「女装世界」も、口をきわめてほめているくらいだ。上方と江戸を往復したので、三十五歳の時、東京を去った時には「玉川千絵逝く!」などと関東に住む人たちがツイートしたものだから、死亡説も流れた。


 これは、彼女が二十代の人気絶頂の頃の話だ。ある秋の夜、京都御所内で天皇や貴族たちが宴会を開いていた。最初は、伝統的な和楽器「笙」を雅に吹いていたりしたのだが、だんだんと夜が深まるとみな酔っ払ってきた。その頃、16ビートという四つの竹を激しくたたく音楽が、長崎から伝わり、京都でも「けしからん音楽」と言われながらも、大ブームとなった。歌舞伎はもちろん、犬を追い回すような小さな子供までもこのビートにのったストリートダンスをTikTokに投稿したりしていた。とても高貴な人たちがするような音楽ではなかったが、酔った勢いで竹をたたいて盛り上がった。一人の貴族がふと、「京都の四条河原でやっている男の娘歌舞伎というのは面白いらしいですな。噂には聞くけど、見たことがない。せめてはその姿を写した絵でも見たいものだ」とおっしゃられたので、神絵師と名高い花田内匠(大坂町人の情けで仮名にしておく)が、描くことになった。


 それを聞いた男の娘たちは、我先にとこの絵師に、自分の着ていたブランド服を「絵柄の参考にしてください」と贈ったり、「空気感を表現してください」と高価な香水をプレゼントしたりした。いずれも質屋やメルカリ(当時はヤフーオークションしかなかったが)で換金できるものばかりである。金目こそがこの浮世の絶対ルールである。

 さすが神絵師だけあって、「花に嵐」「月に叢雲」を描くように、多少、その容姿にマイナス面があっても、うまくそれをごまかして、かぎ鼻をまっすぐな高い鼻にしたり、出っぱった額をうまく修正したりして描いたので、プレゼントを贈った男の娘のイラストはなるほど、みんな大変に美しかった。この頃の玉川千絵は抜群の美形で、器量に自信があったので、特に「うまく描いてくれ」と頼なかった。するとこの絵師は千絵の姿だけを、実物よりもうんと醜く、腰などをかがめて表現した。中国の古代、漢帝国のハーレムにいて、美人であることを自慢していた女性が、絵師に贈り物をしなかったために、醜い女に描かれて、北の蛮族へのプレゼントとして送られて、ひどい目にあったという逸話と同じ事がこの近世日本でも起きたのである。

 貴族たちが男の娘のイラストを品評した時、案の定、千絵はビリになった。上位の絵には、高名な貴族が(場合によっては天皇も)その娘を褒め称える短い詞をつくって書き記したのだが、千絵の絵にはだれも書かなかった。たまたまその年の秋、京都で腰を痛める病気が流行し、千絵も患ってしまい、腰のあたりが痛いのか、お尻を出すように歩いていたので、私は例の腰の曲がったイラストを思い浮かべて、なんとなく笑ってしまったことを幼心に覚えている。

門前列をなすハッテン場

 しかしお偉いさんの評判はともかく、玉川千絵は女装としてすべてにおいて優れていたので、夜のお勤めも客が予約をとるのに先を争い、予約がとれると十日も前からそわそわし出す始末だった。当日の申し込みでは、ハッテンはもちろん、飲み交わすことさえできなかった。
 千絵は少し酔ってからの風情が格別に美しく、うっすらと赤く染めた横顔を見ては、恋に落ちるものが多かった。高雄の神護寺や南禅寺、東福寺といった超名門の高僧はもちろんのこと、各地の寺院の浮かれ坊主どもは、代々伝わる寺宝を売り払い、または寺領の土地まで切り売りして、みなこの美しき女装に金をつぎ込み、あげくの果ては横領がばれて、寺を追い出されるものもたくさんいた。同じように民間会社に勤めるサラリーマンたちも、経理の目を盗んで金を遣い込む事案が続出。千絵姫のかりそめの愛を求めて身を滅ぼしたものは数え切れない。

ある時、元・千絵さんに呼ばれて

 最近の話である。ある日、私(井原西鶴)は、すでに引退して「千之丞」と名乗っている千絵の自宅に呼ばれた。千絵は最近はすっかりメイクをせず、ミックスバーやニューハーフショーの複数のお店を持つ敏腕オーナーとして活躍されている。先にも触れたように私とは一、二回り年上なので、家に招かれるほど仲良くはなかったので、「何だろう」といぶかしんで訪れた。部屋に入ると、そこには、子どもの頃に見たのと同じように美しい女装姿があった。
 「西鶴はん、純男としてご活躍のようね。女装界を支えてくれて、ありがとう」
 「あねさんの忠告のおかげです。昔、あねさんの予約がようやく取れたとき、天にも昇る経験をさせていただきました。その時に『かわいい坊やね。でも女装はしちゃだめよ。いい男ほど女装したがるけど、いい純男がいないと、女装は輝かないの』と言われたのです」
 「あら、そんな立派なこと言った覚えはないわ。でも、もっともなことねぇ」
 「あねさん、相変わらず、おきれいで、びっくりしました。ところで今夜はなんの用でしょうか?」
 「西鶴はん。あなた女装界のことを出版しようとしているらしいわね」
 「えっ? どこでそんな話を」
 「そんなことツイートを見てれば、分かるわよ」
 「いやぁ、いちおう裏アカなんですが」
 「まぁ、そんなことはいいのよ。それより『玉川心淵集という四巻の同人誌を入手した』ってツイート、本当なの?」
 「手書きの1点ものの冊子なんですが、さすがよくご存じで。内容を知りたいのですか?」
 「なかみは知りたくもないわ。知りたいのは、誰から手に入れたのかってこと」
 「そ、それは報道の自由と言いますか、守秘義務と言いますか」
 「ふーん、偉いわね。さすが純男の鑑(かがみ)だわ。で、いくらで買ったの?」
 「い、いや、それも言えません」
 私たちは押し黙った。完璧な熟女装の強いまなざしは、月のあかりのように自分の心の隅々まで照らされるようで、私は無駄と思いながらも目を閉じて、横を向いた。
 しばらくして千絵は「あっ、そう」とつぶやくと、冷たい魔女のような表情から一転、少女のようにほほえんだ。
 「じゃあ本の話はおしまい。そうそう、わたし、これからちょっと用事があるの。一時間ばかり空けるわ。悪いけど、しばらくこの部屋で待っていてくれない?」
 「は、はぁ」
 「そこの冷蔵庫をあけてビールでもお酒でも好きなのを飲んでいて。この部屋で自由にくつろいでて。ただし、この箱だけは、絶対に、見ないでね」と、漆塗りの箱を指さした。鍵もないし、テープで封印されてもいない。「絶対よ」ともう一度私に念押しすると、彼女はさっと部屋から出た。

驚愕の「枕仕事日記」の中身


 お約束に長けている私は、一直線に箱に向かい、ふたをそっと持ち上げて、中身をあらためた。

 「枕仕事日記」と書かれた古ぼけたノートがあった。なんとも興味をそそるタイトルだ。開いてみると、とある年の元日から大晦日まで会った客の情報と対策が毎日ことこまかく書かれている。猛々しい武士や鬼のような形相の反グレを、「はにゃぁ」と甘え声を出させ、すっかり骨抜きにさせる手技足技のノウハウ。田舎からきた鈍くさいお客にはメイク技術を最大限使って清潔な男子に仕立て上げてみたり、やぼったい厚い眉毛の地方の市議センセイは眉毛をすっきりカットしたり、お坊さんにはスカートをはかせてみたり(私も危ないところだったようだ)、その場その場限りのおもしろおかしく客をいじりたい放題が詳細にメモられている。お客はこの異世界体験にも、こうした戯れで気持ちをリラックスでき、千絵のほうもうっぷんを晴らしながら仕事をしていたことがわかる。これほど相手を楽しませることに気を使っているのだから、人気が出ないわけがない。本気で恋する人があとをたたなかったのももっともだ。だが、千絵はそんなお客一人ひとりに、手を抜かず、きっちりと、そしてしっぽりと向き合い続けたのだ。激流と大河を併せ持った彼女のまわりには、たくさんの浮世の噂が浮かんでは消えた。

 私が知りたかった情報はすぐに見つかった。ご丁寧に付箋をしていたからだ。

なにもかも飛ぶ冬の風が舞う河原


 十一月二十四日。京都は冬を迎えようとしていた。北風は強く、雪が降り出し、遠く北の山は白く雪化粧をしていた。そんな京都の目抜き通りの五条の橋の下の河原を寝所にして、この世は浮世の夢と悟り、人生を生き急いだホームレスがいた。早朝に鴨川の上流まで行き、河原に転がっている火打石になる石を拾い、昼間はそれを京都の町中で売り歩き、夕方になって残れば、わざわざ河原に投げ捨ててしまうという、世捨て人の変わった老人だった。

 宵越しの銭は持たないことに満足しているふうなので、人々はこの男を「都のホームレス哲人」と呼んだ。この男が書いたのが、例の4巻本の大著『玉川心淵集』である。中身はというと、オールシーズン玉川千絵ファンブックである。千絵が春の桜にうっとりするところ、夏の暑さにちらり見える白い肌、、、、と千絵の四季の暮しぶりを徹底的に描写しているのだ。千絵の体にあるお灸の痕の数、蚊に食われた場所まで記してあるので、ぞぞぞと悪寒が走るくらいに面白いマニアックな本だ。女装道を嗜もうという人には必見の書物といえる、逆に女装に興味がなければなんの価値もない。

 この男「三木」は、もともと、尾張(名古屋)では有名なエグゼクティブなビジネスマンであった。千絵が男の娘になりたての時から、目を掛けて、名古屋と京都を行き来し、立派な女装に育てあげたパトロン純男であった。その後しばらくして、行方不明になってしまい、千絵は大いに悲しんだ。ある時、誰かが「三木さんが五条河原でホームレスになっていましたよ」と教えてくれた。「人間の将来ほど予想できないものはないのね。もっと早く知らせてもらえていたのなら、後ろ指を指されるような目にはさせなかったのに。こんな近くにいらっしゃったとは、想像もしていなかったわ」と千絵は涙を流した。が、すぐに表情を落ち着かせ「名古屋へは何度も手紙を出して安否を尋ねていたのに、返事がこないのは、三木さんが私のことを見限ったのだろうと、ふがいない自分自身を恨んで過ごしてきました。ただ、こんな仕事をしている間は、彼のみならず、よくあることだと思うしかありません。知らなかったのだからどうしようもないし、なってしまったものはしかたがない」と冷静に言い切った。

 千絵はその夜も予約の入っていたお客を大事に扱い、そんなことがあったそぶりは全く見せず、ハッテン中も情熱的で、客はすべてを絞り出して満足した。その客がすっかり寝込むのを確かめると、千絵は腕枕をほどき、そっと四条河原のハッテン場を離れた。

感動の再会、だったのか

 冬の霜がおりて夜明け前の寒さはかなり厳しかった。マネージャーにも内緒で外出した千絵は、「河原はさらに寒いことだろう」と思い、近くのコンビニでおでんと熱燗を買い、真っ暗な河原を小石をしゃりしゃり踏み、飛び立つ水鳥に驚かされながら、スマホの明かりを頼りに五条の橋の下にたどり着いた。

 「名古屋の三木様」と、名前を呼んだが反応はない。たくさんのホームレスが寝ているのだが、まだ暗いのではっきり見えない。「そういえば左のこめかみに切り傷があったっけ」と思い出して、寝ているホームレス一人一人の顔を順番に手で触れているうちに、三木を探り当てた。
 「先ほどからずっと声をかけましたのに。答えてくれないなんてひどいです」と非難しながらも流れる涙は川のようであった。おでんや熱燗で寒さをしのぎながら、以前のことを話していると三木も昔のように快活になってきた。そのうちに、東の空が明るくなってきた。日に照らされた三木の変わり果てた姿を目にした千絵ははっと押し黙った。「まったく昔の様子が残っていない。数年でこんなにも変ってしまうものなのか」と心で思いながら、千絵は三木のかさかさの足をさすってあげた。かえって皮膚がやぶけ血がにじみ出て、さらに痛々しかった。それでも、千絵は変わらぬ様子で、かつてのように膝枕して頭をなでたりしたが、早朝の出勤者が橋を踏みならす音が聞こえて、劇場の営業を伝える朝一の太鼓がしてくると、さすがに千絵もそわそわし、「今日の夕方までここで待っていてください。必ずお迎えにまいります」と言い残して、河原を去った。

 夕方、舞台を終えた千絵が急いで橋のたもとに行くと、すでに三木の姿はなかった。まわりのホームレスに聞いてみると、「哲人」は今朝方、千絵がやって来たことを少しも喜んでおらず、逆に「つまらない人が訪ねてきて、せっかく楽しんでいた自分の暮らしを邪魔された」とむっとした表情で、どこかへ立ち去ってしまったのだという。

 千絵は京都中を探し回ったが、見つからなかった。そこで河原に残っていた火打石を集めて、東山の今熊野に運び、石を埋めて塚をつくり、三木の家紋の桐の木を植えた。まるで立派な墓所のように、お寺に出張所を置いてもらい、定期的にお経もあげてもらった。そして、恋多きことで有名な玉川千絵が建立したことから、「新恋塚」と呼ばれるようになり、今にいたる。

蛇足エピローグ

 日記の日付は十一月二十四日、これは私がはじめて大人になった日でもある。なぜ客が満足したとわかるのか? それはその客が二十歳の頃の私だったからだ。残りの日記は読まずにノートを閉じ、箱に戻し、ふたをかぶせた。それから、私はただ箱をじっと見つめたまま、2時間以上たっても来ない千絵を待ち続けた。
 「西鶴はん、待たせちゃったね」
 「いいえ、この世界にいれば、待つのは当たり前のこと」
 「で、その四巻本には、いくら払ったの?」
 「はい、0円です」
 「買う価値もない、と?」
 「違います。私は50万円で買いとると言いました。けれど」
 「けど?」美しく描かれた眉尻がちょっとあがった。
 「彼は買い取りを拒否しましてね。これに値段なんかつけられたくない、おまえにくれてやる。代わりに、こいつを50万円で買ってくれないかと」
 「ふうん、なにを?」
 「火打ち石です」
 数秒の沈黙があり、千絵は大笑いし出した。その目からは七筋もの川がとめどなく流れていた。


 女装的解釈

 *これはかなり加筆しています。原典を読むと、ホームレス哲人が再会をいやがっているまま終わっています。純男の中には、自分が見初めた女装が活躍していくことを心から喜び、自分はそっと見ているだけでいい、というプロデューサー気質の人が多くいらっしゃる。原典ではあえて省略したかもしれない純男の心のありかたを想像してぞんぶんに盛りました。西鶴は、秘密の枕営業日記(原典では「初枕」)をなぜのぞき見ることができたのか、なぜ哲人は消えたのか、微妙なバランスの純男ごころが実際には張り巡らされていた物語だったのかもと想像して書きました。「玉川心淵集」も現存しない謎の書物とのことで、こうした話にしてみました。原典は巻5の3「思ひの焼付は火打石売り」。


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