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【Zatsu】世の中をひっくり返すもの9



とある記憶

誰でも一度は、デジャブ(デジャヴュ、déjà vu)という言葉を聞いたことがあると思う。
日本語に直せば既視感。初めてのはずなのに「以前どこかで経験した気がする」と感じるアレだ。視覚だけではなく、経験全般について適用される。

デジャブ現象を説明しようとする試みはいろいろあって、心理学や脳科学による学術的なものから、前世記憶や宇宙人関与説などオカルト的なものまで数え上げればきりがないが、まだ完全には解明しきれていないようだ。

記憶のかなたにあるいつか見た光景、どこかで味わった体験の正体はいったい何なのだろうか。はたして実在したのだろうか、それとも後付けの記憶や思い違いなのだろうか。
その謎ときも、それはそれで興味深いのだが、もうひとつ自分がわからないことがある。それは「何をもって似ていると思ったのか」ということ。

言い換えると、どこに「類似性」を感じたのか、ということ。

たとえば、会社に新入社員のAさんが入ってきた。おや、この人どこかで会った気がする。でも、まだ20代前半の新卒だし、自分との出会いは年代的にありえない。聞けば、生まれも育った場所も自分とまったく接点がない。
で、よくよく思い返すと、自分が新人時代に研修で一緒だったBさんに思い至った。
なぁんだ、ぜんぜん別人だわ。冷静に考えたら見た目も声も、あまり似ていない――。はずなんだが、でも、なんとなく似ているというさっきまでの感覚は継続している。

似ていないってわかっているんだ。あらゆる情報が、ふたりは別人だということを示している。
でも、感覚的にはどこか似ている気がする。
何かに「類似性」を感じている。言葉にできないのだが。
そんな経験はないだろうか。


シラナイ、シラナイ、シラナイ

ジャメブ(ジャメヴュ、jamais vu)という言葉もある。未視感と訳されるが、これはデジャブと逆で、同じはずなのに、初めてのような感覚を覚えること。
たとえば、いつものように電車に乗って地元の駅で降り、改札を抜けた瞬間、目の前に広がる景色に「あれ、どこだ、ここ?」と一瞬アタマが真っ白になって混乱する経験、とか。地図アプリも、駅名の看板も、路線図も、あらゆる情報が「ここはあなたが住む地元の駅です」という事実を伝えているんだけれど、納得できない何かがある。

つまり、そういう表面的な情報以外の何かに「相違性」を感じている、ということだろう。

デジャブとジャメブは、現象こそ真逆だが、本質的なところは共通している。すなわち、人間のアタマの中には、目の前のデータとは別の、なんらかの判断軸が存在するんだ。

AIをヒトに近づけようとするとき、これが非常に大きな障壁になるんじゃないかと思っている。


受容される宇宙

我々は世の中(の現象)を、ありのまま受け入れている。受け入れる際には特段の評価や判定はおこなわれず、ありのままが吸収されアタマのなかに格納される。その格納された情報に対して、あとからタグづけするんだ。

たとえば、美味しい料理を食べたとき、その食事には味や、温度や、触感や、香りや、ビジュアルや、店に行くまでに道に迷ったイライラや、スタッフの優しい接客でほっこりした感情や、そういや以前友だちがこの店ウマイって言ってたなという突然割り込んできた別の記憶や、ここPayPayつかえたっけという一抹の不安や、いろんな情報が付随している。あるいは、それらが相互干渉して生じるさらなる情報もあるかもしれない。それらすべてがありのままに吸収される。

そして、それらを自分自身で思い返すとき、あるいは他人に語ろうとするとき――つまり、吸収したものを何らかの形で再生しようとするとき――、人は事象に対してタグづけをするんだ。
#甘みと酸味のバランスが最高
#スープ熱すぎ
#コシの強い麺

しかし、我々は吸収した現象すべてに対して、精緻に分類、分析を行えているわけではないだろう。そもそも、言語というものは不完全な記号にすぎない。ためしに「りんご」と叫んでみたところで、それを聞いた各人が思い描くりんごは、色、形、味、品種、さまざまだ。言語は世の中の事象を抽象化し、なんとなく再生する際の便利ツールでしかない。そして、その言語を用いたタグづけにもまた、おのずと限界があるというわけだ。

しかし、吸収された世界chaosは自分のアタマの中で生き続けている。


心の声

なぜこんなことを書いているのかというと、以前、ウチの嫁が『エゴイスト』という映画を観てきて、帰ってくるなりこう言ったんだ。エンディングで流れていた曲になんとなく聞き覚えがあり、クレジットを見ても全く知らない人。でも、曲は知っている。さんざん記憶の海をさまよった挙句、たどり着いたのがBjorkだった。


このふたつを、似ていると思う人もいれば、ぜんぜんちがうじゃん、と思う人もいる。

確かに重たいテーマの映画のエンディング曲という共通項はあるにせよ、メロディも楽器も、国も文化もぜんぜんちがう。
しかし、なにかしら通底するものがある、と感じる人もいる。
その「何か」を人間は察知して「オナジモノ」と受け止める。

これはいったい何なのか

親近感を生み出すもの
共感、シンパシーの本質
高揚感の源泉

音楽を構成する構成要素のパラメータ値を比較しただけでは、両者は同じとは見做せまい。

音楽が喚起する映像、視覚効果、空気、雰囲気、共通の記憶、思想、そこからさらに伝播して形作られる何か。

これは複雑すぎて、しかも人間がアタマの中で無意識の連想ゲームを繰り返した末にたどりつく、一見すると論理性も何もない、入口と出口に関連性の見えない結論だから、言語化が非常に困難。

でも、上の2曲を同じと認識するというのは、そういう背景があるからかもしれない、というのがひとつの仮説。我々は、それに対して言語以外の何らかの手段を使ってタグづけを行っているのかもしれない。

もしそうだとすると、驚くべきことがもうひとつある。それは、おなじく上の2曲を聞いて「たしかにおなじだ」と感じる人がいるということ、すなわち、そんな理屈もへったくれもないような連想ゲームのルートを同じようにたどり、同様のタグづけを行い、「おなじだ」という結論に達する人がいる、ということだ。ということは、何かしらの類型があるのだろう。

ただしそれは現時点では言語化できていない「なんだかよくわからないもの」として存在している。

我々はアタマの中にあるものを引っ張り出して再生する際に、言語を用いる。しかし、言語化できない、よくわからないタグが存在する。そして、そのタグを用いて「似ているデジャブ似ていないジャメブ」が判断されている(ように思える)現象も見受けられる。

いまのAIは「おりこうさん」なのだが、「天才、狂人」ではない。この先、技術革新によってこの「なんだかよくわからないもの」を取り込んだとき、AIは大きく人間に近づく気がする。

しかし、一方の我々はその事実を正しく認知できるのだろうか。


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