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【Zatsu】世の中をひっくり返すもの10(前編)


出会いと感動をクリエイト

昨日、DX総合EXPOから帰ってきて、ふと思った。

あのEXPOは、いわばサービスの見本市。もう少しかたい言い方をすれば、ビジネス上の課題を抱えている企業と、課題解消の手段ソリューションを提供しようとするテック企業との出会いの場、マッチングサイトということになる。会場の東京ビックサイト公式ページでも「出会い」と「感動」を提供するとハッキリ謳われているからね。

ひとは価値を認めたものに対価を払う。これは経済の大原則だし、どの時代でも揺るがない事実だろう。世間の価値観や企業が提供する製品・サービスは時代とともに変遷し、今後もどんどんと変わりつづけるだろうが、「いいね👍」と思ったもの/コトに対価を払うという、この構図自体は変わりようがない。
だから、業界内で競争が起こり、みんなが次々と「いいもの」を提供しはじめると、自分も負けないように「いいね」してもらおうと努力するというわけ。そして、お客さんは「さらにいいもの」を要求しはじめるんだ。

価値を認めたものが購入対象となる。いらないものは、どんなに安かろうが、高性能だろうが、いらないからね。当然👍はつかない。しかし👎がつくわけでもない。完全スルー。評価対象外であり、眼にも留まらない。これが企業にとっては一番きつい。

だから、あの手この手でお客さんの目を引くことが要目となる。となれば、派手な広告や、真偽のあやしい売り文句のひとつ、ふたつも出てくるってもんだ。


戦国の世を生き抜く知恵

もちろん自社の得意分野は決まっているわけで、それがドンピシャに響くような課題を抱える企業なんて限られている。100社のうち10社くらいかもしれない。彼らが定価100万円の商品を1億円で買ってくれるならそれでもいいけれど……まずありえない。だったら、たとえば少なくとも全部合わせて60社から契約を取ってこないと採算が合わない、となる。
差分の50社は……ドンピシャではないにせよ、そこまで大外れでもない。だったら営業トークでなんとか買ってもらえるかも。

広告ちょっと派手すぎるだろ。このフレーズ、言いすぎじゃない? 確かにわからないでもないが、そうしないと残りの50社から契約が取れない。

いや、それ以前に、最初の10社との出会いすら実現しないかもしれない。

このEXPOの会場を見てみなよ。これだけ広い会場に、無数のブースが建ち並び、企業がアピール合戦を繰り広げ、お客さんは入れ代わり立ち代わり「この会社はどんなサービスを提供しているんだ?」と情報収集に余念がない。
そんな群雄割拠の戦場ヶ原で、メインの10社がたまたま自社のブースの前を通りかかり、たまたま我々の差し出すパンフレットを受け取り、たまたま時間があったので話を聞いてくれる。そんな可能性ってどれくらいあるんだよ。隣のブースに営業トークでかっさらわれないなんて、だれが保証できる? だったら、多少大げさだろうが、無駄打ちが多かろうが、やるしかない。大事なのは勝率じゃなくて、10社、60社という絶対数なんだ───という現場の声はリアリティがあるでしょ。

そういうサービス合戦がくりひろげられているよう「にも」見えた、というのが昨日のEXPOの切り抜き印象。もちろん、実際はちがうかもしれないけどね。一個人のうがった見方。自分はひねくれてます😏。


変わったものと変わらないもの

技術革命が起き、できることが増え、提供価値が底上げされると、それに応じて顧客の要求も向上し、要求に応えようと努力の結果サービスが改善し、そのうち新たな発見が次の技術革新を生み……。

パッと見た限り、好ましい上昇スパイラルが続いているように思えるし、実際にそういう側面があるのも理解している。でも、話をエンタメに絞って考えたとき、提供サービスがどんどん向上していく中で、お客さんもそれを享受している一方、その上昇を続けるサービスは本質的にどこまで付加価値を伴っているんだろうか、という疑問が浮かんだんだ。

たとえば昔の特撮映画なんてわかりやすい。ウルトラシリーズは今でも続いている円谷プロのドル箱コンテンツだ(経営のほうはともかく)。Wikipediaによると、2024年1月から放映されている『ウルトラマン ニュージェネレーション スターズ』が最新作らしい(なにそのSASUKEオールスターズみたいなの)。

ネット上に動画があったので観てみたら……意外とやっていること変わらなかった😝。ウルトラマンと怪獣のバトルも、あれ着ぐるみなのかな、安心して観ていられるというか、そこまで「すげぇ」というものはない。CGなどの特殊効果は比べ物にならないほど進化しているけどね。ふーん。

そう思いながら、初期ウルトラシリーズの動画もあったので、のんびり気分で続けて視聴したのですが───なんということだ。おそろしいほどに違う。やっていることは同じなのに、ここまで違うか。技術の進歩とはすさまじいものだな、と感じ入った。

しかし、だ。
これを見ている子どもたちの感動、わくわく感というのは、初期ウルトラシリーズと最新作とでどれほど違うんだろうかと思うのよ。もちろん時代背景とか、期待値の基準なんかは昔と今とで全然ちがうのはわかっているんだけれど、子ども(お客さん)がウルトラマンに求めているものって何だろうねってこと。派手な特殊効果がないと、得られないものなのだろうか。つまり、お客さんの本質的なニーズは変化しているのだろうか。

初期の特撮映像は、令和に生きる人間の目で見ればたしかに「作り物感」がすさまじい。当時の子どもたちのなかにだって、「ウルトラマンの背中のファスナー」をイジっては笑いを取るクラスのお調子者や、遊園地イベントでやってきたライダー系のヒーローに蹴りを入れて「中の人」とコミュニケーションをとろうとするシャイな悪ガキもいたはずだよ。

そんな子どもですら、いざ放映時間になるとテレビの前に釘付けで、わくわくしながらほかの子と同じようにストーリーを追いかけていたわけでしょ。
かたや、現代の子どもたちだってSASUKEオールスターズ的なウルトラマンでわくわくしている。派手な映像演出があるだけで、今も昔もやっていることは変わらないし、子どもたちが受け取るわくわくの絶対値も変わらない。


おやくそくの世界

伝統芸能である能。それを演じる際につける能面が、顔より小さく作られているというのをご存じだろうか。演者のあごがでるサイズになっており、一般的には、あごの動きが表情を形作り演出力を増す狙いがあると説明されている。
ところが、どこで聴いたのか読んだのか記憶があいまいなのだが、「面が小さいのは、この演目がフィクションであるという演者と観客の暗黙の合意を示しているんだ」という説。これはなかなか興味深いと思った。要するに、これはステージ上で繰り広げられている作り物なんだから、野暮な詮索やツッコミはしなさんな。とにかく舞台の面白いところだけ集中して味わい、楽しんで帰ってくれれば、それでよろしい、ということ。
それを、「顔がはみ出た面」というシンボルで体現している。「あの線が、現実と虚構とを隔てる境界線である」と。なるほど、これは粋な表現だわ。

おそらく、これはひとつの「おやくそく」なんだ。舞台の上と下とで握った共通認識。それを受け入れたうえでの娯楽享受なんだろう。べつに舞台設定すべてをリアルにする必要もないし、背景の書き割りを解像度の高いリアルな写真にする必要もない。何を楽しむのか(=価値を見出すのか)が合意されていれば、そこはどうでもいいんだろう。

これって、テレビの前の子どもも同じだよね。背中のファスナーなんてどうでもいい。中に人が入っているかどうかなんて、どうでもいい。それはおやくそくとして頭の隅に追いやり、メインストーリーさえ見られれば、それが最高のわくわくを与えてくれる。

派手な演出が無くても、高精度なリアリティ表現がなくても、人はそれを「おやくそく」として、いとも簡単に世界の外へ押し出し、純粋にエンタメのエッセンスだけを受け入れることができる。

もし人が意識のちからで環境を都合よく変え、外的要因に左右されず自分が楽しいと思うものを最高の状態で主体的に選択し吸収・享受できるのだとしたら、これ以上もう何もいらないだろう。ある意味これって完成形。チート状態だよね。

さて、となると技術革新は人をこれ以上しあわせにすることに貢献できる余地はあるのだろうか(エンタメに限った場合)。
どうも雲行きが怪しくなってきたところで、逃げるように後編へ続く😁