【小説】テクノロジーを語る勿れ【第34話】

 帰国当日。夜間の日付が変わる頃に予定されているフライトに向けて、午前中から最終的な荷造りの仕上げに入っていた。帰国前に食べておきたいものは何だったかと思いながら手元を忙しく動かしていたのだが、結局はポリテク構内のケンタッキーでフライドチキンのハンバーガーとチーズフライのセットという、宿舎から出入りのし易い距離のフードコートで無難に済ませた。
 宿舎を後にするぎりぎりまで詰め込むわけにはいかない手荷物や洗面用具などは、こうした時にまとめるタイミングに困ってしまう。荷造りを早く済ませ過ぎても、返って手間を増やすことも考えると、結局は空港に向かう時間を決めてからじゃないと片付き切らないので、部屋の掃除や片付けも結局ギリギリまで終わらない。

 広木の帰国が決まってから、フローとは別のドイツ人のカイが宿舎の同じ部屋に移り住んで来ていた。彼もフローのようには英語は流暢ではないのだと、広木に友好的に歩み寄って来ながら、オーチャードロードなどで一緒に映画を観に出掛けるなどして時間を共に過ごした。
 やはりドイツ人が生真面目なのかカイが特にそうだったのかは分からないが、広木が一人の時間に利用していたポリテクの関係者向けのプールやジャグジーを備えた施設を帰国前に紹介したところ、カイはあろうことかどのような資格を持ったものが利用出来るのかと受付けに尋ね、関係者ではないので利用出来ないと一蹴されていた。同様に部外者である広木はあたかも関係者のようにその施設を出入りしていたのだが、特段身分を問われるようなことは一度もなく、余計な確認さえしなければカイもずっとその施設を利用出来たに違いなかった。

 広木が部屋を後にする前に、ユラが利用していた何故だがエアコンの電源が入らない部屋から漸く広木が利用していた部屋に移動出来ると、カイは嬉しそうに言いながらノートのページを一枚裂いて、青いインクのボールペンで連絡先を書き出して手渡してくれた。フローからも同じように青いインクで別れのメッセージが書き出されたノートの切れ端を、見送りの時間には予定があるからと午前中にそれを受け取っていた。
 チャンギ空港まではシンガポールでの生活の世話をひっきりなしにしてくれていたディンが付き添ってくれた。マーライオンでお馴染みのシティホールのMRT駅前のスターバックスで落ち合い、冷たいドリンクを飲みながら二人並んで自撮りで写真を撮った。世話好きのディンに対し、広木はその天然さ加減にしばしばイライラしながら共に過ごすことも少なくなかったが、振り返ると笑えるエピソードばかりではあった。サングラスを見に20時まで営業している眼鏡屋に行きたかったが、ここから向かうと15分はかかるしもう既に20時5分前だから別の日に行くことにする、といった旨をディンに告げると、ディンは開いているかも知れないから念のため行ってみようという。陽が落ちても蒸し暑いシンガポールの繁華街を汗を滲ませながら歩いた末、結局は案の定閉店後の店前で佇むしかない、そういったことがディンと過ごしていると週に何度も起きた。その都度「だから言っただろうが」と広木は苦言を漏らした。特に酷い時は、百貨店などで上層階に向かっているのによそ見をしながら下層階へ向かうエスカレータに乗り、「下行きだったー」と悔しそうに苦笑いをしながら自らを悔やんでいたが、そういった行動が一向に改善される様子はなかった。

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