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ルーツを訪ねる旅(私だけかもしれないレア体験)

 去年の5月のことである。玉川上水の起点を訪ねる旅をした。玉川上水は多摩川の源流から四谷まで続く水道路。1653年、江戸に住む人々の水源として造られた。太宰治が身を投げた川としても知られている。
 私をこの旅に誘ったのは、『東京発 半日徒歩旅行』(2018年、山と渓谷社)という本である。この本は東京から半日で行って帰ってこられる小さな旅のガイドブックで、私はこの本を買ってから、月に1、2回、この本と地図を頼りに小さな旅に出かけている。
 この本の著者は「旅好きライター」の佐藤徹也氏。ネットで調べると私と同じ歳で、同じ大学の卒業生だった。といっても、在学中、顔を合わせたことはない。佐藤氏は「学生時代はリュックを背に何ヶ月も旅をする貧乏旅行者だった」と書いているから、大学にはあまり来なかったのだろう。そういえば私のクラスメートにも、ほとんど大学に来なかったくせに、ちゃっかり卒業したやつがいる。佐藤氏も卒業しているようだから、あの頃はいい時代だったといえる。いや、いい加減な時代だったというべきか。
 それはともかく、著者とのそんな縁もあって、私は半日徒歩旅行を始めたのだが、それが何年も続いているのは、この小さな旅が仕事の役にも立っているからだ。ちょうど、この本と出会った頃、私は季刊誌『情況』でハードボイルド小説の連載を始めたのだが、半日徒歩旅行は小説を書くための取材旅行にもなっている。
 私が一緒に仕事をしている漫画家やイラストレータは「見たものしか描けない」という。空想で描いたとしか思えないような絵にもモデルがあり、それを見て描くという。芥川龍之介の小説にもそんな絵師が出てくるから、絵描きとはそうものなのかもしれないが、実は私も同じタイプで、自分の足で歩いたところしか書けない。だから、小説を書くときはまず歩く。「刑事は足で稼ぐ」というが、小説家も同じなのだ。
 問題はどこに行って、どこを歩くかだが、これを決めるのは大変で、いつも時間を取られていた。
 が、この本と出会ってからは、どこに行くかで悩むことがなくなった。この本に載っているコースを歩けばいいのだから。ちなみに、この本には続編もあり、正続両編合わせて99の旅のプランが掲載されている。玉川上水を訪ねる旅もその中の一つである。
 この本は使い勝手がよく、一つひとつの旅に「モデルプラン」が附してある。佐藤氏が実際に歩き、これだと選んだコースである。旅のプロがすすめるコースなのだから間違いない。だから私はいつもモデルプラン通りに歩いていた。
 玉川上水の旅のモデルプランは下記の通りである。

 JR青梅線羽村駅→玉川上水起点→
 福生加美上水公園ビジターセンター→
 奥多摩街道→水喰土公園→
 JR青梅線拝島駅

 当初は、私もこの通りに歩くつもりだった。つまり、まず、玉川上水の起点を見て、そこから水の流れに沿って歩き、町に出る。佐藤氏がどういう理由でこのコースをモデルにしたかはわからないが、私はこれが正しいコースだと思った。水の流れに沿って歩けば上水の工事に駆り出された人たちの苦労もわかるし、水が町に届いた時の感動も味わえる。そんな風に考えたのだ。佐藤氏の紀行文からも、そんな気持ちが感じ取れた。
 が、JRの駅に向かうバスの中で、ふと気が変わった。
「拝島から沢登りのように上水を遡って羽村の起点まで歩いてみよう」
 そう思ったのだ。なぜ、そう思ったのかはわからない。こうした方がいいという確たる理由はなかった。が、一度そう決めたら私の心は動かなかった。

 拝島駅で電車を降り、地図を広げ、玉川上水の位置を確認した。玉川上水は上流に行くと遊歩道が整備されている。が、拝島駅のあたりでは、上水は住宅と住宅の間を縫うように通っている。だから、上水に沿って歩くことはできない。佐藤氏も「上水を造るときにすでに人家があって、それを避けるように流路が決められたようだ」と書いている。
 私は何度も地図を確認し、上水から離れないように気をつけながら住宅街を歩いた。しばらく行くと上水にかかる橋が見えた。しかし、その橋を渡るとまた上水は見えなくなる。が、しばらく歩くとまたどこからともなく上水が現れる。そんなことを繰り返しているうちに、モデルプランにある福生加美上水公園ビジターセンターにたどり着いた。そして、気がつくと遊歩道に入っていた。
 遊歩道は木々に包まれていた。深い森の中を歩いているようだった。聞こえてくるのは水の音と野鳥のさえずり。こういう道はいくら歩いても飽きない。
 拝島駅から1時間ばかり歩いた頃である。突然、巨大な建造物が目の前に現れた。鉄骨がむき出しになった建造物で、水力発電所のようにも見えたが、地図で確認すると羽村取水堰だった。玉川上水の水量を調整する施設である。
 取水堰に沿った道をしばらく行くと、これまで視界を遮っていた木々は消え、青い空が現れた。空の下には山々が並び、その下には広大な河原が広がっていた。青い空を映しているのは多摩川の源流だ。ついに、玉川上水の最上流に来たのである。
 羽村取水堰の西端には、玉川上水の開削工事を指揮した「玉川兄弟」の像が建っていた。私はその像に一礼し、体にピタッと張り付くようなサイクリングウェアを着た人たちで賑わう見晴らし台に行った。多摩川と玉川上水を仕切る水門はすぐそこにあった。

 さて、こうして玉川上水の起点を訪ねる旅は終わったのだが、この後、思いもよらぬ事件が起きる。
 水門に架かる橋の上から西の方に目を向けると、多摩川に沿って遊歩道が伸びているのが見えた。
 当初の予定では、ここから羽村駅に向かい、電車に乗って帰るはずだった。が、ここでまた気が変わった。せっかくこんな遠くまで来たのだから、このまま真っ直ぐ駅に向かうのはもったいない。少し寄り道しよう。私はそう思い、遊歩道に入った。
 左は多摩川の源流、右は田んぼと民家。源流の景色もワイルドで迫力があったが、右手の景色にも惹かれた。いわゆる「日本の原風景」がそこにあったのだ。私は土手を降り、町中に入り、タイプスリップしたかのような気分を味わいながら田んぼと民家の中を歩いた。
 地図も見ずに、足の向くまま気の向くままにしばらくうろつくと、小さな空き地の前に看板が立っているのが見えた。観光案内かと思って見てみると、そこには「中里介山 生誕の地」と書いてあった。
 私は驚き、かつ厳粛な気持ちになった。
 中里介山は日本ハードボイルド小説の嚆矢とされる大長編小説『大菩薩峠』の作者である。日本ハードボイルド小説の開祖、つまり、ハードボイルド作家を名乗って作家活動をしている私のルーツである。
 玉川上水の起点を訪ねる旅が、奇しくも私自身のルーツを訪ねる旅になったのだ。
 看板には近くの寺に墓があると書いてあった。私はその墓を訪ねた。介山先生の墓の前に立ったとき、これまでに経験したことがないほどの神妙な気持ちになった。
 
 この日、JRの駅に向かうバスの中で、私は小さな決断をした。川を下るのではなく、川を上ろうと決めた。特に理由もなくそう決めた。
 その結果、この日の旅は、自分自身のルーツを訪ねる旅になった。「川を上ろう」と決めたのはたしかに私だ。誰に言われたわけでもない。私が一人で決めたことだ。しかし、本当にあれは私が決めたことなのか。私の意思を超えた何かが決めたのではないのか。ならば、その何かとは何なのか。                  

#私だけかもしれないレア体験


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